第3章 地域経済の活性化に資する事業活動の推進
本章では、地域経済の活性化に資する事業活動の推進の観点に立ち、「地域経済に波及効果のある事業に取り組んでいる事例」、「地域コミュニティを支える事業活動に取り組んでいる事例」及び「技術・技能者を活かした小規模事業者の取組事例」として、全11事例を紹介する。
第3部 小規模事業者のたくましい取組―未来につなげる―
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第3章 地域経済の活性化に資する事業活動の推進
本章では、地域経済の活性化に資する事業活動の推進の観点に立ち、「地域経済に波及効果のある事業に取り組んでいる事例」、「地域コミュニティを支える事業活動に取り組んでいる事例」及び「技術・技能者を活かした小規模事業者の取組事例」として、全11事例を紹介する。
第1節 地域経済に波及効果のある事業に取り組んでいる事例
本節では、地域産品の開発や地域おこしなど、地域経済に波及効果のある事業活動に取り組んでいる下記の3事例を紹介する。
事例3-3-1 株式会社 目細八郎兵衛門商店(石川県金沢市)
事例3-3-2 株式会社あいさいか(愛知県愛西市)
事例3-3-3 光浦醸造工業 株式会社(山口県防府市)
事例3-3-1:株式会社 目細八郎兵衛門商店(石川県金沢市)
(針製造・販売業)
〈従業員8名、資本金1,000万円〉
「加賀の伝統工芸「めぼそ針」「加賀毛針」を守るために、挑戦を続ける金沢随一の老舗商店」
◆事業の背景
加賀藩主を唸らせた針の技術が、県の伝統工芸品、「加賀毛針」の礎に。
「加賀百万石」として知られる石川県は加賀藩の庇護のもと、江戸時代に優れた伝統工芸や伝統文化が花開いた地。それらは今も人々の誇りであり、北陸新幹線の開業にともない増加した観光客にとっては、金沢観光の目玉でもある。国や県が指定する県内の伝統工芸は36を数えるが、その一つがこの地の鮎釣りで古くから使われてきた「加賀毛針」。創業440年の歴史を持つ金沢市の目細八郎兵衛(めぼそはちろべい)商店は、この毛針を明治から製造してきた老舗中の老舗だ。
創業は、天正3年(1575年)にさかのぼる。縫い針の製造販売に始まり、初代八郎兵衛は成形の難しい絹針の目穴を「丸」から「細長い楕円」にアレンジする独自のアイデアで、縫い糸を通しやすい針を開発。城にも献上していたこの針は評判を呼び、加賀藩主より「めぼそ」を針の名として下賜され、これが現在の屋号と目細姓の由来ともなった。同社の黎明期を支えた「加賀毛針」と「めぼそ針」は、同じ針とはいえ用途も形状もずいぶん異なる。20代目店主に当たる目細勇治社長は、この二つの針を扱うようになった経緯を、金沢独特の鮎釣りが影響したと説明する。
◆事業の変遷
手工業や鮎釣りが衰退する中、時代の流れを巧みに泳いだ店主たち。
「加賀藩は外様でありながら100万石の大名でしたから、幕府も警戒の目を向けており、藩は武芸の代わりに鮎釣りを奨励しました。そのようななか、武士たちが縫い針を曲げて、“返し”の無い『加賀毛針』を発案し、その針を使った釣りがこの土地ならではの鮎釣り(ドブ釣り)として定着しました。」
当時、武士にしか許されなかった鮎釣りが明治の世となり庶民にも広がると、次第に「加賀毛針」の需要は増加。同社も縫い針の製造技術を応用した「加賀毛針」の製造販売を開始し、老舗としての地歩を築いていった。この新しい商品に目を向けたのは決して成り行きではなく、明治以降、急速に進んだ機械化の波を見極めた末の判断だった。江戸時代は着物、畳、製本など、多くの製造業が縫い針を使う手工業で成り立っていたが、それが機械に取って代わられ、縫い針の需要が縮小する兆しが現れていた。新たな戦略商品と位置づけた「加賀毛針」も時代の流れには逆らえなかった。
「明治23年に第3回内国勧業博覧会に『加賀毛針』を出展した頃がピークだったようです。当時の写真を見ると、鮎の解禁日には市内を流れる犀川では岸はもちろん、橋の上まで釣り人が鈴なりでした。しかし戦後、釣り人口自体が縮小し、渓流釣り、ルアー、フライなど、釣りのスタイルも多様化したことで、鮎釣りをする釣り人は次第に減っていきます。」(目細社長)
◆事業範囲の拡大
店を支えた中心商材を見切らず、さまざまなアイデアで付加価値をプラス。
戦後、縫い針と加賀毛針の需要が急速に縮小するなか、先々代の頃には全ての釣具を扱う釣具問屋へと転換し、商いの規模を拡大することで身代を守ってきた。このように同社は440年にわたる歴史の中で、何度も時代の変化を乗り越えてきたが、常に時の店主が腐心してきたのは、「針づくり」の技術を守ることだ。売上の中心が釣具問屋に移った今も、「めぼそ針」、「加賀毛針」は同社の看板として輝きを放っている。
しかし、この「加賀毛針」を未来に残していくためには大きな問題があった。それが技術の継承だ。現在では加賀毛針の職人は同社の4名の職人を含め、石川県全体でわずか8名にまで減少。このまま手をこまねいていては、製造技術を継承する人は失われる。その対策として生まれたのが、同社オリジナルのアクセサリー「フェザーアクセサリー」である。きっかけは偶然で、20年ほど前に始まったブラックバスブームの際、先代がブラックバス用の毛針を作り店頭に置いたこと。加賀毛針に比べ、色鮮やかでサイズも大きな羽根を使うことから、その美しさに目を引かれた観光客の女性が「ブローチにしたら素敵ですね」と漏らした一言に先代が注目し、釣具の疑似餌に使う羽根を用いたアクセサリーの製造をスタートさせた。その製造に「加賀毛針」伝統の技術が使われているのはいうまでもない。
◆今後の事業と課題
自社の伝統工芸を守るだけではなく、金沢全体の工芸品を守るのも老舗の役割。
「フェザーアクセサリー」は次第にブローチ、コサージュ、ピアスへと、アイテムを増やし、平成27年に完成した新社屋1階に設置したギャラリースペースの大半を埋めるまでに成長した。
「毛針の職人さんになりませんか、と誘ってもなかなか難しいですが、こういったアクセサリーを作ってみませんか、といえば興味を持ってくださる女性もいる。今、3年目の職人として働く女性も、このアクセサリーづくりをきっかけに毛針を巻く技術を習得しました。」(目細社長)
この「フェザーアクセサリー」に加え、目細社長は若者の間で人気が高まりつつある渓流釣りで使用する針に「加賀毛針」の技術を応用したり、「めぼそ針」についても針山や裁縫セットなどの周辺商品を開発したりすることで、新たなニーズ開拓を目指している。
「針山や裁縫セットは思った以上に評判をいただいていますので、もっと新しいアイデアを出してビジネスとして軌道に乗せていきたいですね。加えて、さまざまな金沢の伝統工芸品を組み合わせ、互いに協力しながら金沢のさまざまな伝統工芸を守っていくのも、440年にわたりこの地で伝統工芸を守ってきた老舗としての役割だと思っています。」
そう話しながら、目細社長が指し示す先には金沢の伝統工芸である加賀染めを使った針山や、九谷焼の若手作家の作品を組み合わせた商品が並ぶ。このように長い年月、広い視野で商いを行ってきた目細八郎兵衛商店のような存在があってこそ、加賀藩由来の伝統工芸は永遠に伝承されていくのだろう。
事例3-3-2:株式会社あいさいか(愛知県愛西市)
(各種食料品小売業)
〈従業員5名、資本金600万円〉
「コンビニの空き店舗を直売所に変え、小規模農家が農業を続けられる環境を提供」
◆事業の背景
農協に出荷できない生産者のため、直売所の設置を模索。
愛知県愛西市は、平成17年2町2村が合併して発足した。地域の新鮮な野菜や果物、切り花や苗などを販売する「株式会社あいさいか」は、その八開地区(はちかいちく)にある。この地域は木曽川を隔てて岐阜県に隣接しており、木曽川が育んだ肥沃な土壌により豊かな農村地帯を形成してきた。
「この地域は畑作地域で、レンコンや人参、大根、イチゴが特産品です。砂地で土に小石などが混じっていないので、根菜がきれいにまっすぐ育ちます」と語る吉川靖雄氏は、この地で長らく農業を営みながら、農協の組合長や市議会議員も務めた経歴を持ち、あいさいかの社長でもある。
この歴史ある豊かな農村地帯も、日本の他の農村地帯と同様、高齢化の波に襲われている。後継者が少なく、高齢化により規模の縮小化が進み、耕作できなくなった畑地も増え始めている。
農産物の農協への出荷形態には共選と個選があり、共選は手数料がかかるが単価は優遇される。ただし、一定量以上なければ共選では出荷できない。また、以前は近隣に卸売市場があり手軽に持ち込むことができたが、近年市場の統合が進み、出荷のために遠方まで運搬しなければならなくなった。このため、生産量が少なく、遠くまで出荷できない小規模農家にとって、出荷そのものが高いハードルとなっている。
そこで、現在の吉川社長と田中秀彦専務は、農産物の直販所を併設した道の駅を誘致しようと、行政にかけあった。「しかし、道の駅は基本的に1つの市町村に1か所で、愛西市には既に道の駅があるため、新しくは作れないと分かりました。」(吉川氏)
◆事業の転機
空きコンビニ店舗を活用し、地域になくてはならない店舗をオープン。
そのような折、同じく元市議会議員で不動産業を営む田中氏の元に、空き不動産物件の相談が持ち込まれた。廃業したコンビニエンスストアである。しかし、人口減少が続く農村地帯で新たに店舗を開業したいという人は、そうそう見付からない。なんとかならないかと吉川氏に相談し、行政頼みではなく、自分たちの手で地域の小規模農家が出荷できる販売所を作ろうと話がまとまった。
「店舗がそのまま使えましたし、駐車場もあり、直売所としては十分でした。遊んでいても固定資産税がかかるので、持ち主に家賃を安くしてもらうようお願いして、店を始めることにしました。」(田中氏)
吉川氏と田中氏は、花の生産農家である冨田喜八郎氏を誘い、3人が役員に就任して会社を設立。それぞれの仕事は続けながら、店舗の運営を始めた。平成22年のことである。
6年目となる現在、ある程度顧客が定着し、販売農家も着実に増えている。現在の販売登録者は約200名。扱う作物の種類によって、年に数回しか作物を持ち込まない生産者もいれば、頻繁に持ち込む生産者もおり、約半分の100名前後が常時持ち込んでくる。
同社は同時に、パンや菓子など一部の日配品も置き、地域の雑貨店の役割も果たす。地域の雑貨店が高齢化で無くなり、コンビニも撤退し、車でなければ買い物もできなくなっていた。ここができたことで、高齢者が徒歩や自転車で気軽に買い物ができるようになった。
「こういう直販所ができたことで、もう辞めようかと思っていた生産者も農業を続けられます。本人にも生き甲斐ができ、健康も保てます。耕作放棄地になる畑を減らせるので、地域にとってもいい。」(吉川氏)
今や同社は、新鮮で安価な野菜や果物を求める外からの来訪者にとって魅力的であるだけでなく、地域の住人にとってもなくてはならない店舗となっている。
◆事業の飛躍
講習会や情報提供により、生産者に工夫を促す。
同社の特長は、地域の新鮮な野菜や果物が手に入ることだけではない。特産品であるレンコンを使った「レンコン焼酎」など、地域で開発した他では手に入らない商品の販売なども行っている。
品ぞろえも豊富で、カリフラワーの一種であるロマネスコや、中南米原産のキク科の根菜ヤーコンなど、普通のスーパーではなかなか手に入らない野菜も置いてある。このように多彩な品目がそろうのは、同社が行う講習会や各種情報提供によるところが大きい。
「毎年行う総会に、産直に精通する講師に来てもらい、話をしてもらいます。愛知県の農業試験場の元部長、農協の子会社の社長など情報をたくさん持っている人に来てもらうので、勉強になります。新しい情報を伝えてもらうと、会員も同じものばかり作っていては売れないと、変わったものを試したり、同じものでも時期をずらしたり、みんな考えるようになります。」(吉川氏)
さらに、お店での売れ筋や、業界紙の売れ筋ランキングなど、生産者に役立ちそうな情報も積極的に提供。それぞれの生産者に工夫を促している。
同社のパート従業員のなかには野菜ソムリエもおり、目新しい野菜の食べ方を教えたり、試食品を提供したりするなど、顧客への情報提供も怠らない。従業員にとっても職場の満足度が高いようで、現在まで1人も入れ替わりがないという。
◆今後の事業と課題
大型化と企業体質の強化、後継者の育成・選定が課題。
同社の人気に競合店も目を付け、最近は産直コーナーを設置するスーパーが近隣に増えている。そのため、駐車場を含めた店舗の拡張が現在の課題だ。
「やはり、こういう場所はバスが停まれることが必要で、トイレの整備も重要です。ただし、いずれもかなりのお金がかかります。土地の問題もあり、すぐには整備できませんが、そのうち拡張したいですね。」(吉川氏)
そして、役員3人ともが70代を超えた同社最大の課題は、後継者だ。
「われわれ3人には別に仕事があり、極端なことをいえば利益がでなくてもやっていけます。しかし、次の人にそれを強いるわけにはいかない。そのためにも、まずしっかり利益が出る体質を作ろうと、商工会を通じて中小企業診断士に相談することにしました。そうした基盤を築いたうえで、5年以内には後継者を決めたいと考えています。」(吉川氏)
愛西市の野菜を愛する人にとっても、地域の小規模農家にとっても、これからの5年が正念場となる。
事例3-3-3:光浦醸造工業 株式会社(山口県防府市)
(味噌・醤油及びその他関連加工食品の製造・販売)
〈従業員20名、資本金1,000万円〉
「乾燥レモン入りレモンティーがけん引役に」「会社の規模を拡大させ、街づくりに貢献したい」
◆事業の背景
将来を見据えて、自ら事業承継を提案。
中小企業経営者の平均年齢は上昇傾向にあり、承継者不足も深刻化している。多くの企業が承継問題にあえいでいるなか、慶応元年(1865年)の創業以来、防府市大道の地で、味噌と醤油を150年以上にわたり作り続けている光浦醸造工業 株式会社では、8代目となる光浦健太郎氏が世代交代を機に事業を拡大し続けている。
幼少時代から祖父や父の働く姿を見て育った光浦氏は、家業を継ぐことに抵抗もなく、農業大学を卒業後、実家の醸造所で働き始めた。何の疑問も持たずに目の前の仕事をこなす毎日だったが、入社2年目頃、会社のホームページを自分で作り始めた時、考え込んでしまった。
「ホームページを作りながら愕然としました。書くことがないし、職場の写真なんて恥ずかしくて載せられない。商品紹介のページには業務用の味噌と醤油しかない。会社に何の特徴もないことに気付きました。」
その時はまだ行動に移せなかった。将来を真剣に考えたのは、平成18年に結婚し、家族に対する新たな責任が生まれてからだった。
「業務用だったので取引先に卸す量も単位が大きく、もし何社かでも契約を切られたら経営難に陥ります。そんな不安を抱くようになりました。それに、味噌と醤油はいい意味で完成された調味料なので、業務用での改良の余地も少ない。先が見えてしまい、このまま単に事業を継いでいいのか真剣に考えました。いろいろな葛藤の末、『一般家庭向けの自社商品を開発するなど新たな試みが必要。そのためには、親が上司ではやりにくい』と思い、自分から父に、会社を譲って欲しいとお願いしました。」
そして光浦氏は、平成20年、31歳の若さで家業を継いだ。
◆事業の転機
引け目を感じない商品づくり。新製品開発への取り組み。
最初に手掛けたのが、味噌を無添加にすることだった。
「物産展などでお客さまが品質表示ラベルを見て、がっかりした表情をされることがあります。そのような時は、引け目を感じていました。だから、良い素材を使って、心からお客さまに勧められる商品を作りたいと思いました。」
もちろん急に全ての添加物を止めたら別の味になってしまう。また、無添加にすることで、発酵が活発になりパッケージが膨らみやすい、塩分が強くなるなどの課題もあった。そのため、1年毎に少しずつ添加物を減らし、10年の歳月をかけて無添加にしていった。
「外国産の大豆を、安全な国産にもしました。利益率は下がりましたが、いいものを作りたいという自分の気持ちを最優先させました。」
併行して新製品開発にも取り組んだ。歴史のある蔵元だが、市販品を販売していなかったので“光浦醸造”というブランド名は浸透していなかった。そのため、新しい商品の開発で、“伝統”という縛りを感じることもなかったという。
「洋風料理に味噌を使うレシピがありますが、どうしても味噌の味が前面に出てしまいます。そこで、洋風料理に使える味噌を作ろうと思いました。いろいろな豆で試作したところ、ひよこ豆にたどり着いたのです。」
ネーミングからパッケージデザインまで全て自分で行い、光浦氏が自信作と胸を張る「ひよこ豆みそ」が、約2年後に完成。そのほかにも、独自の製法を用い、国産の原料を使用した100%植物性の「ひよこ豆とごまのドレッシング」や、だし、ポン酢などを次々と開発していった。
◆事業の飛躍
万人向けの商品がけん引役となり、昔からの商品も再認識されることに。
“引け目を感じることのない商品”ができたものの売れない。そもそも、こだわりを持って料理をする人が興味を示す商品なので、お客さまが限られてしまう。それでも、知ってもらわなければ売れるものも売れない。そこで万人向けの商品も意識するようになった。
「乾燥機を販売する会社を経営する同級生から『乾燥機を使ってもらえないか』と相談を受けました。最初は、味噌や醤油を乾燥させようと思いましたが、面白くない。すると、その会社にオレンジを乾燥させたサンプルが置いてありました。それでレモンティーを思い付きました。」
紅茶の葉も国産にこだわった。インターネットで茶葉を取り寄せて、乾燥レモンに合う葉を選んだ。こうして乾燥させた輪切りのレモンと紅茶パックをセットにした新しいタイプのレモンティー「フロートレモンティー」が完成。狙い通り、ネットショップなどで評判を呼んだ。
「原料を国産にこだわったのは、海外市場を視野に入れていたからです。“MADE IN JAPANの紅茶”という部分は強みになると思いました。」
その後、ある人の紹介でハート形のレモンを作る農家と出会った。
「見た瞬間、『これはうちのためにあるレモンだ』と思いました。」
ハート形の乾燥レモンが浮かぶレモンティー「レモンハート」を発売すると、これが瞬く間に人気を呼び、現在は生産が追い付かなくなっている。レモンティーが注目されることで、味噌や醤油など昔からの商品も改めて注目されるようになった。
◆今後の事業と課題
会社の規模を拡大して、魅力ある街づくりに取り組む。
ヒット商品がけん引役となり、ほかの商品も売れ行きが伸びている。海外市場への進出も、台湾を皮切りに展開していく予定だ。
「商品の見直しや新製品開発をするなど突き進んできましたが、会社として何か目的を持ちたいと思いました。自分にできることは何だろうと考えた時、生まれ育った大道という、ごく普通の田舎町を、魅力ある街にしたいと。そのためには規模を大きくして、影響力のある会社にしたいと思いました。」
街づくりの手始めに、来年、大道駅の近くに本社を移転する。生産量を上げるために、社員も増やしていくという。
「今までは、企画から製造方法、パッケージ作りにいたるまで、全てを私がこなしてきました。会社を成長させるうえではそれではだめ。これからは役割を分散し、新商品を作る楽しさ、評価を受けた時の喜びを、社員と共有したいと思います。」
人材育成にも力を入れていくと同時に、地域の雇用創出にも一役買いたいと話す光浦氏。事業承継という大きな決断をし、歩み続けてきたことについて「間違いではなかった。」と胸を張って言える。
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