第3部 小規模事業者のたくましい取組―未来につなげる―

第2節 事業承継後の新たな取組に挑戦した事例

本節では、事業承継を契機として新たな取組に挑戦している小規模事業者について、下記の4事例を紹介する。

事例3-2-4 株式会社 門間箪笥店(宮城県仙台市)

事例3-2-5 マルナオ株式会社(新潟県三条市)

事例3-2-6 株式会社 安田製作所(愛知県みよし市)

事例3-2-7 山元染工場(京都府京都市)

事例3-2-4:株式会社 門間箪笥店(宮城県仙台市)

(箪笥の製造・販売業)

〈従業員16名、資本金1,000万円〉

専務取締役門間一泰氏

「伊達藩ゆかりの仙台箪笥の老舗が、海外展開やネット販売で事業を拡大」

◆事業の背景

伝統工芸の仙台箪笥の製造技能を、144年の長きにわたって受け継ぐ。

株式会社門間箪笥店は、明治5年(1872年)に伊達藩の御用職人だった門間民三郎氏によって創業された。以来、日本の伝統工芸品である仙台箪笥の製造に従事し、144年の長きにわたって技能を承継しながら事業を発展させてきた。

仙台箪笥の特徴は、指物・塗・金具の「三技一体」による堅牢な美しさにある。前面は欅、側面は杉、引出し内部には吸湿性の高い杉や桐を使用。湿気や乾燥による自然の“くるい”を防ぐため、木地には10年以上寝かせた素材を使用し、熟練の職人が手で感触を確かめながら丁寧に仕上げている。派手で豪華な仙台箪笥づくりは、“伊達男”の語源にもなった伊達政宗が仙台藩主であった時代に、始まったといわれている。

もともと仙台箪笥は、指物・塗・金具のそれぞれの職人が分業して完成させていた。そうした中、3代目の門間民造氏が、職人たちが自分の作った箪笥に誇りと責任を持てるように、指物や塗などの工程を一人の職人に任せ、自社工房で一棹まるごと制作できる体制を整備。これにより、“お直し”などのアフターサービスにも柔軟に対応できるようになった。

近年でも、平成23年に小箪笥「壱番」と中型箪笥「二尺猫足両開き」が、平成25年にはデザイナーとコラボレーションした「コンソール(ローテーブル)」が、それぞれグッドデザイン賞を受賞するなど、門間箪笥店が代々受け継いできたものづくりは高い評価を得ている。

仙台市若林区の本社(仙台箪笥伝承館)にはショールームと工房がある

◆事業の転機

経済産業省の補助金を活用し、海外の展示会に積極的に出展。

そうした中、7代目に当たる代表取締役専務の門間一泰氏は、箪笥の国内市場が縮小傾向にあることに憂いを感じ、海外市場に目を向けるようになった。海外の展示会に積極的に出展し、海外にも仙台箪笥のファンを増やそうと考えた。

だが、海外の展示会に出展するためには、渡航費や家具の搬送費など多額の費用がかかる。そのため、門間箪笥店では、中小企業庁の「ふるさと名物支援事業補助金制度」などを有効活用することで、費用を捻出した。

門間箪笥店の海外展開の大きな転機になったのは、4年ほど前に香港で開催された国際的なインテリアの展示会に出展したことだった。その時は、仙台箪笥の注文には至らなかったが、反響が大きかったので、海外でも仙台箪笥は十分に受け入れられると手応えを感じたという。

その後、アメリカの知人の紹介で、ロサンゼルスの日系のスーパーマーケットで展示会を開き、アメリカでも高い評価を得た。さらに、その翌年に日本デザイン振興会が運営している香港のグッドデザインストアで展示会を開催。それが香港の百貨店のバイヤーの目に留まり、それを機に門間箪笥店の仙台箪笥が香港で売れ始めるようになった。

以来、門間箪笥店の仙台箪笥の評判が口コミで広がり、香港、上海、タイなどのアジア圏を中心に、海外でも仙台箪笥の愛好家が徐々に増えていった。

「海外では、もともと日本のものづくりに対する信頼度が高く、特に当社の製品はデザインのバランスがいいと評価していただいています。現地の声を次の商品開発に活かし、マーケットインの商品を作っていることも、海外で受け入れられている理由の一つです。」

中型箪笥「二尺猫足両開き」グッドデザイン賞を受賞した

◆事業の飛躍

現代の生活様式にマッチした、デザイン性の高い家具も販売。

現在、門間箪笥店の売上は、9,600万円(平成27年5月期)。このうち、国内の売上が9割を占め、海外の売上はまだ1割に過ぎないが、今後は海外の売上が3~4割程度まで増加すると予想し、海外の売上だけで1億円を達成させることが目標だ。

同時に門間氏は、国内市場の売上アップにも力を注いでいる。平成26年に仙台市青葉区大町に直営店「monmaya EDITION」をオープン。仙台箪笥に加え、現代の生活様式にマッチしたデザイン性の高い無垢材の家具を多数展示し、新たな顧客層を増やすことに成功している。とりわけ、職人による手作りのメリットを活かし、サイズオーダーやフルオーダーなどさまざまな要望に幅広く応えることで、他社との差別化を図っていることが大きな特長だ。

一方、平成7年に本社に開設したショールーム兼工房「仙台箪笥伝承館」は、仙台市民の間で広く認知されており、平成14年に文化庁から「登録有形文化財」の指定を受けている。特に「仙台箪笥伝承館」の工房は、昔ながらの古民家をそのまま利用した趣のある施設で、小・中学生が伝統工芸を学ぶための社会科見学のコースにもなっている。

また、地元の子どもたちに伝統工芸に興味をもってもらうために、若林区の区民祭りなどで仙台箪笥を作る実演を行うなど、地域行事にも積極的に携わっている。

◆今後の事業と課題

地方の高齢者も気軽に利用できる、オンラインショップの構築を推進。

さらに門間氏は、平成26年に日本商工会議所青年部主催のビジネスプランコンテストに応募。そこで発表した「地方在住者向け上質な国産家具専門ECサイト」が見事準グランプリを受賞した。これは、地方に在住しているITリテラシーが低い高齢者などが、インターネット通販で上質な家具を手軽に購入できる環境を整備するというビジネスプランが高く評価されたものだ。

「近年、手頃な価格で家具を購入できる量販店が増え、各地域にあった“町の家具屋”が次々に姿を消しています。その結果、地方在住者は、上質で長持ちする家具を購入したくてもできないのが実情です。そこで、実店舗に近いかたちで“売り手の顔が見える”インターネット通販サイトを構築し、地方の顧客を増やしたいと考えたのです。」

たとえば、現在のインターネット通販は、クレジットカードによる決済が基本だが、門間箪笥店のインターネット通販では、電話による注文や銀行振り込みなどに柔軟に対応し、高齢者でも気軽に利用できるように配慮している。

既に門間氏は、外部のデザイナーに依頼してインターネット・サイトのデザインづくりに着手しており、平成28年6月頃にオープンする予定だそうだ。当初は日本語のみの対応になるが、将来的には英語版や中国版も用意し、海外からの注文にも対応できる体制を整えていく計画だ。

古民家を利用した工房。若い職人も多い

事例3-2-5:マルナオ株式会社(新潟県三条市)

(箸・カトラリー・大工道具の製造・販売)

〈従業員17名、資本金1,000万円〉

代表取締役福田隆宏氏

「口当たりが良く、つかみやすい、こだわりの箸づくりで世界に挑む」

◆事業の背景

大工道具の市場が縮小傾向のなか、八角形の箸で新たな活路を見い出す。

マルナオ株式会社は、もともと神社仏閣の彫刻師として活躍していた福田直悦氏が、その技能を活かして大工道具の墨坪車(すみつぼぐるま)の製造を開始したのがはじまりで、昭和14年に創業された。墨坪車は、墨のついた糸を張って木材に線を引くための道具で、木材を切る時などに使用される。そのなかでも、マルナオの墨坪車は、緻密な龍の彫刻などが施されていることが大きな特長だ。以来、大工道具としての高い精度と芸術性を兼ね備えたものづくりは、今日に至るまで代々受け継がれている。

しかし、平成18年に3代目の代表取締役に就任した福田隆宏氏は、大工道具の市場が年々縮小傾向にあることに危機感を覚え、新たな事業の柱を築きたいという思いに駆られるようになった。そうしたなか、福田氏が着目したのが、黒檀や紫檀を材料に用いた箸の製造だった。

「箸は、日本人が日常生活で頻繁に使うものです。なおかつ、マルナオで代々受け継がれてきた大工道具の製造技術を活かせる分野なので、ぜひ挑戦したいと考えたのです。」

箸を製造するに当たり、福田氏が当初からこだわり続けていたのは、箸の先端を極力細く(直径1.5ミリ)し、箸の持ち手から先端まで八角形の形状に統一することだった。

「箸の先端を細くすると表面積が少なくなるので、口当たりが非常によくなります。たとえば、お刺身などを食べた時に、素材のうまさだけが口に広がります。さらに、、先端を八角形にすることで、小さな豆などもつかみやすくなります。」

その一方、一般的な箸は、加工しやすいように先端が丸くなっている。また、先端が丸いとつかみづらいので、先端の部分に滑り止めの塗料を施しているものもある。しかし、この場合は、舌先にざらざらした感触があるため、嫌う人が多い。そこで、福田氏は既存の箸の問題点を解消し、これまでにない良質な箸を作りだそうと一念発起した。

新潟県三条市の本社工場。この地から世界へ羽ばたく

◆事業の転機

消費者の潜在ニーズを喚起し、大手百貨店でロングセラーに。

だが、直径1.5ミリの先端部分を八角形にする箸づくりは、決して容易なことではない。箸を削る際のテンポや集中力が重要になるので、ベテランの木工技術者でもセンスがないと作るのは難しいという。そこで、福田氏は自ら職人としての技能を磨き、試行錯誤を繰り返しながら理想とする箸を作り上げ、箸の製造という新規分野を切り拓いていった。

そうした中、大きな転機になったのが、三条市の商工会議所が主催する見本市に箸の自信作を出品したことだった。それが大手百貨店のバイヤーの目に留まり、自社の店舗で販売したいと声をかけてきた。しかし、大手百貨店のバイヤーは、当初は手づくりの高価な箸が本当に売れるのか半信半疑だった。そのため、実際に商談が成立するまでに2年以上を要した。

いざ百貨店でマルナオの箸の販売したところ、そのバイヤーが想定していた予算額の3倍以上の商品が売れた。さらに、最初は物珍しさから新商品が売れるケースがあるが、マルナオの箸は、その後も快調に売れ続けていった。それは、福田氏の箸へのこだわりが、日々の食事をもっと楽しみたいという消費者の潜在ニーズと見事に合致した証だった。

福田氏がこだわり抜いて生み出した極上八角箸

◆事業の飛躍

海外の見本市に戦略的に出品し、世界的な著名なシェフも購入。

箸の新規事業が徐々に軌道に乗るなかで、福田氏は更なる飛躍を果たすべく海外市場にもいち早く目を向けた。ドイツのフランクフルトで開催された世界最大規模の国際消費財見本市に箸を出品。箸の出品は珍しいため大きな反響があったが、その時点ではオーダーはほとんど入らなかった。その理由は、欧米では箸を取り扱っている店舗自体がとても少ないからだ。

そこで、福田氏は海外戦略を練り直し、海外市場で受け入れやすいステーショナリー(レターオープナーや定規など)やカトラリー(スプーン、フォーク、ナイフなど)の製造に着手する。いずれも木製なので、箸づくりのノウハウを活かせることが大きな強みだった。その後、海外の見本市で木製のスプーンやフォーク、ナイフと一緒に箸を並べ、それらをセットで販売したところ、一気にオーダーが増え始めた。ミシュランガイドで「世界一星を持つシェフ」と称されているジョエル・ロブション氏も、その一人だった。

かくしてマルナオの業績は順調に拡大。福田氏が代表取締役に就任する以前は、大工道具の売上が全体の99%を占めていたが、現在は、箸が70%、大工道具が15%、ステーショナリーやカトラリーが15%を占めるようになった。かといって大工道具の売上自体が減ったわけではない。それ以上に新規分野の売上が大きく伸びたのである。

◆今後の事業と課題

若手の職人を育成しながら世界のトップブランドを目指す。

マルナオの緻密な箸づくりは、誰でもすぐにできるわけではないので、若手の職人を育成することが今後の重要な課題だ。福田氏は若手育成にもぬかりがない。

「ステーショナリーやカトラリーは、箸に比べると比較的作りやすいので、まずはステーショナリーやカトラリーで技能を磨き、そのうえで、箸づくりに挑戦するという流れが出来上がっています。こうすることで自社製品の売上アップと技術者の育成を同時並行で進めています。」

また、地元の子どもたちなどにものづくりの醍醐味を実感してもらうため、本社の工房をオープンファクトリーとして公開するなど、地域の活性化にも貢献している。平成26年10月に開催された「燕三条 工場の祭典」では、八角形の箸づくりの体験コーナーを設置。その参加者のなかには、フランスのパリからわざわざ足を運んでくれた人もいた。今やマルナオの箸は海外でも広く知られるようになったのである。

だが、福田氏は現状の成果に満足しているわけではない。今後も国内外の見本市にマルナオの箸を積極的に出品し、その認知度を更に広めていく考えだ。

「マルナオの目標は、世界において、箸のトップブランドになることです。幸い、箸を専門に製造している競合会社はほとんどないので、近いうちにぜひ実現したいと思います。」

「燕三条工場の祭典」で箸づくりを体験するフランス人

事例3-2-6:株式会社 安田製作所(愛知県みよし市)

(トラック用幌・幌枠の製造・販売、パイプ曲げ、溶接加工)

〈従業員5名、資本金1,000万円〉

代表取締役安田岳史氏

「先代から受け継いだ社員を思いやる経営が、ユーザーの使いやすさを追求した新商品を作る」

◆事業の背景

ゴルフネットからトラックの幌枠へ。確かな溶接技術が会社の強み。

大型トラックの荷台に綿やポリエステルなど厚手の帆布製生地を覆い被せることで、荷物を雨や埃、落下の危険から防ぐ幌。これを取り付けることで大切な荷物は守れるが、その反面、荷物の出し入れは困難になってしまい、作業の効率が悪くなるというデメリットも伴う。そのような不便を解消するために作られたのが、側面を開閉できる幌である。側面開放式幌は近年、アルミ製のものが多く普及しているが、アルミ製の幌より古くから存在していたのが、帆布製の側面開放式幌だ。そんな側面開放式幌を40年近く製造してきたのが、株式会社 安田製作所である。

同社は昭和39年、先々代の安田茂氏が創業、平成25年に安田岳史氏が三代目の代表取締役に就任した。創業当時は主に家庭用のゴルフネットの製造を行っていたが、昭和48年のオイルショッック後に注文が減少。しかし、同社の溶接技術が認められ、県内の会社から下請の仕事が入るようになった。この元請会社が大型トラックの側面開放式幌を製造・販売する会社であり、この頃から安田製作所は側面開放式幌の枠組みの製造を請負うこととなる。注文は徐々に増え、販売が軌道に乗ると、波はありながらも月間120~180台程度の受注があり、ピークだったバブル期には月間約400台を生産していたという。

「私は学生時代から、親に『お前は好きなことをやりなさい』と言われてきたこともあり、大学卒業後は県内のソフトウェア会社に入社しました。しかし、自分のなかでは『いつかは父の跡を継ぐのだろうな』と思っていましたし、また、仲の良い友人からも『おまえは家業のほうが向いている』という進言を受け、26歳の時に安田製作所へ転職しました。」

会社の代表となった現在でも現場で作業を行う安田岳史氏

◆事業の転機

バブル後も順調だった会社にやって来た最大の試練。下請体質からの脱却。

岳史氏が加わり、新たなスタートを切った安田製作所だったが、その4年後のリーマン・ショックで事態は一変する。100台以上あった月間の生産台数は20台にまで落ち込み、下請の仕事に頼っていた会社の経営は一気に逼迫していった。

「うちの会社には溶接の技術しかなく営業力もなかったので、新しい仕事に転換することもできず、『なんとかしなければ』という焦りだけが募っていました。」

この頃、岳史氏は軽トラックの側面開放式幌の製作を考えていた。しかし、受注台数が少なくなったとはいえ、いまだに会社の主な収入源は下請の仕事に依存するところが大きく、軽トラックの側面開放式幌の分野に手を出すことには躊躇があった。しかし、その後も会社の経営は悪化の一途をたどり、岳史氏は平成25年、意を決して軽トラック用の側面開放式幌の開発に着手する。すでに他社から側面開放式幌は販売されていたが、岳史氏は「丈夫で使いやすい商品を作れば必ず売れる。」という自信から、これまで培ったノウハウを活かし、新商品開発に取り組んだ。独自にパーツ設計を行い、試行錯誤を繰り返しながら、平成25年の年末、「ラクホロウィング」を完成させた。

◆事業の飛躍

これまでのノウハウを活かして完成した、お洒落でポップな新商品。

「『ラクホロウィング』は、幌の開閉をワンタッチで行えるように設計し、開閉に要する時間は既存商品の半分の約10秒でできるようにしました。幌の色も24色から選べるようにするなど、お洒落でポップなイメージに仕上げました。」

完成した商品の販売を前に、岳史氏は近所の農家の方々にモニターを依頼した。するとそこには、思いもよらぬ壁が立ちはだかった。

「軽トラックを利用している農家さんは、ほとんどが小規模な農家さんでした。小規模農家さんは軽トラックを1台だけ持っているケースが多く、その1台で収穫した野菜から農機まで運ばなければならないということを知りました。しかし、『ラクホロウィング』は周囲を幌で囲っているため、荷台からはみ出るような長いものなどは搭載できません。こうした問題点を解消するためには、もうひと工夫加えた商品が必要でした。」

そのような中から生まれたのが、「ラクホロ」だった。「ラクホロ」はワンタッチで扉の開閉ができず、背が低く大きな荷物を積むこともできないが、その代りに骨組みから幌まで、1分もあれば一人で軽トラックの荷台に設置できるというものだった。載せる荷物の大きさに応じて手軽に脱着が可能なため、「ラクホロウィング」の欠点を補える商品となった。「ラクホロ」以外にも2つのタイプの幌が誕生し、平成26年9月、正式に販売を開始する際には4商品を揃えることができた。さらに「ラクホロ」は実用新案権も取得した。

価格を抑えるため、代理店は通さず、販売は全てインターネットで行うことにした。そこで岳史氏は中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」の申請を行い、補助金の一部を商品のホームページ作成に利用した。

工場の中心に据えられた一枚板では、一反(12~13メートル)の反物をそのまま染められる

◆今後の事業と課題

インターネットを使わないお年寄りを、どう取り込んでいけるかが課題。

新商品開発にともない、憂慮していた元請会社との関係も良好だという。

「商品ラインナップは現在、5種類となりました。販売開始から1年半で、全シリーズの累計販売台数は100台を超え、農家の方だけでなく、趣味で利用する方も増え、裾野の拡大も実感しています。それでもまだ、会社の収入の8割近くは下請の仕事に頼っているのが現状です。これからは、少しずつでも下請の割合を減らしていくのが目標。そのためには、インターネットを使わないお年寄りの農家の皆さんに、どう知っていただけるかが課題ですね。」

さらに岳史氏は、今後もユーザーに使いやすい商品を作り続けていきたいという。その裏には、父からのこんな教えがあった。

「入社当時から、父には『社員を大事にしなきゃダメだよ』と教えられてきました。その教えを守るためにも、とにかく、お客さまを第一に考えた商品を作り続けていきたい。それがやがては、社員の皆さんを大切にすることにつながると思っています。現在、会長に退いた父は、『よく頑張ったな』と言ってくれます。」

女性でもたった1分で簡単に取り外しができる「ラクホロ」

事例3-2-7:山元染工場(京都府京都市)

(舞台等衣裳専門製造一式、型友禅による染加工・金彩・縫・仕立)

〈従業員2名〉

左から3代目の母山元久仁子氏、4代目(現代表)山元宏泰氏、テキスタイルデザイナーでもある妻桂子氏

「長年続く家業の技術を活かし、オリジナルブランドを起ち上げる」

◆事業の背景

86年続く、舞台や時代劇の衣裳作り。技術力とスピードが大きな信頼を獲得。

競争相手不在のニッチな業界で、どう仕事を発展させるか。京都・山元染工場の代表である山元宏泰氏がそのような悩みを持つ理由は、同工場が属する業界と業務の特殊性にある。屋号に「染」の文字が入るが、同工場は大手貸衣裳会社からの依頼で、時代物の映画やドラマ、舞台で使われる衣裳や小物一切の製造を行っている。時代背景や登場人物に合わせて衣裳の色やデザインを決め、染め加工、縫製まで、全てがオーダーメイドだ。最近では幕末から明治期を舞台とする朝のドラマでヒロイン姉妹の性格を着物で表現し話題を集めた。

創業は昭和5年。山元氏の祖父が型友禅の工場で丁稚奉公したことにさかのぼる。当時の大スターである阪東妻三郎の女中頭との結婚が縁で映画衣裳を手掛けるようになり、折からの日本映画ブームにのって舞台衣裳専門の工場を設立した。

「うちには創業から86年の間に蓄積した10万枚以上の型紙(和柄)があります。その中から時代や身分に合う柄を選び、映像や舞台で最も映えるよう、特別に調合した色や技法で染め上げます。」

厳しい納期の仕事が多いが、デザインや配色はテキスタイルデザイナーでもある妻の桂子氏が、染色は宏泰氏のほか、今や京都でも珍しい「濡れしごき」という染色技法を操る母の久仁子氏が担うことで、作業を一気通貫で行い製造のスピードを維持している。

工場の中心に据えられた一枚板では、一反(12~13メートル)の反物をそのまま染められる

◆事業の転機

家業を直撃した東日本大震災。初めて発信したSOSで気持ちが前向きに。

長年、贔屓筋と強固なネットワークを築くことで、安定した営業を続けてきた同工場が危機に見舞われたのは平成23年。東日本大震災を境に業界は軒並み“ハレ”の舞台を自粛。この状況は2年間続き、売上は下降線をたどる。宏泰氏が経営を引き継いだ平成25年当時は、まさに苦悩の日々だった。というのも、仕事の特殊性ゆえ、技術を盗もうとする人が後を絶たなかったことから、「業務内容は他言無用」が家訓。当然、誰かに打開策を相談することもできず、孤立無援の状態だった。加えて、同工場が京都の歴史とともに歩んできたことも、足かせとなった。

「京都の人間は他人に内情を話すのは“恥”、という思いが強いのです。」(宏泰氏)

そのような状況を変えるきっかけを作ったのは、三重から嫁いできた妻の桂子氏。いってみれば“よそ者”でもある桂子氏の「商工会議所に相談に行ってみよう。」という言葉が宏泰氏の背中を押した。思い切って商工会議所を訪れ、「困っている。」と初めて人に打ち明けたことで、宏泰氏は気持ちが前向きになり、ずっと心を覆っていたモヤが晴れたという。

そのかいあって、商工会議所からはさまざまな制度や補助金の紹介を受けることができた。なかでもターニングポイントとなったのは、京都府が中小企業を応援するために施行した「知恵の経営」の実践モデル企業に応募したこと。商工会議所の支援員や専門家など、外からのサポートを受けながら申請書類をまとめる過程で、問題点や目標がより明確になり、その結果、「知恵の経営」モデル企業に認証されたことが大きな自信となった。

◆事業の飛躍

培った歴史と技術を武器に、新しいニーズを探る。

明らかになった一番の課題は「新規マーケットの開拓」。冒頭で触れたように、同工場は限られた取引先からの受注のみで経営を続けてきたが、この先、時代物の映画やドラマが増える保証はない。そこで家訓には背くが、まずは同工場の歩み、技術等をPRするホームページの開設に踏み切った。大げさなようだが自身で情報を発信する、ということは同工場にとって方針の一大転換なのだ。また、ドラマや映画で納品した衣裳は一切、手元に残らない。このため、訪れた顧客が手に取り、製品のクオリティを確かめられるよう、納品した衣裳と同じものを製作することを考えた。この時、中小企業庁の「小規模事業者持続化補助金」が役に立ったという。

さらに、新規事業にも着手。それが桂子氏デザインによるテキスタイルブランド「ケイコロール」だ。同工場に伝わる何千種もの安土桃山時代用の型紙から、現代の感覚にあったものを選び、バッグや小物に加工して売り出そうというもので、試作品は百貨店のバイヤーなどから一定の評価を受けた。桂子氏も「大量生産のラインに乗せるのではなく、手仕事の美しさを伝えていきたい。」と、今後のビジネスの広がりに期待を寄せる。一方、桂子氏に触発されるように、宏泰氏はドラマ用にデザインした古典柄を使った、優雅なバッグや風呂敷などの和小物へのチャレンジを検討中だ。

ドラマでも話題になった衣裳。昔から残る型紙を使い、デザインや配色は桂子さんが担当
安土桃山時代用の型を使い、現代風にアレンジした「ケイコロール」の作品

◆今後の事業と課題

家業から外に開かれた“会社”へ。技術を未来へつなぎ、人を育てたい。

こうして動き出した新しい試み。宏泰氏によると、まだ大きな結果を残すまでには至っていない。

「問合せは増えたものの、今年度はドラマの受注が多く、製作に追われていたため、思うように新規開拓は進みませんでした。その時々の状況に左右されるのが小さい工場ならではの悩みどころです。」

焦りがないといえば嘘になるが、ただ売上を伸ばせばいいと考えているわけではない。新たな挑戦は工場を社会に貢献できる“会社”にしたいという思いがあるからだ。現在、同工場で働くのは家族3人。人手が必要な繁忙期は、大学でテキスタイルを教えていた桂子氏の教え子を呼べば事足りる。「しかし」と宏泰氏は言葉を続ける。「紡いできた技術は家族だけでは、いつか絶えてしまうかもしれない。一方で染色を学んでも働く場所がない若者も多い。新しい仕事を生み出すことで、技術を残し、雇用も創出できる。今すぐは無理でも、そのような社会に開かれた“会社”に育てていきたいと思っています。」

家業を守ることだけに腐心していた頃には見えなかった目標が、外に目を向けたとたんに定まってきた。それが伝統を100年、200年とつなぐ、第一歩になるはずだ。

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