第2部 小規模事業者の挑戦 ―未来を拓く―

第2節 よろずコーディネーターによる支援の事例

本節では、全国47各都道府県に設置されているよろず支援拠点に所属するよろすコーディネーターにおける支援の取り組みと支援先の実例について下記の5事例を紹介する。

事例2-4-6 北海道よろず支援拠点(北海道札幌市)

 コーディネーター 中野 貴英 氏

【支援先の事例】 有限会社 きなこ菓子工房(北海道札幌市)

   代表取締役 本間 勝司 氏

  〈菓子製造販売業〉

事例2-4-7 岩手県よろず支援拠点(岩手県盛岡市)

 コーディネーター 伊藤 朗 氏

【支援先の事例】 ヴィヴ・レ・ママン(岩手県花巻市)

   代表 早野 こずえ 氏

  〈コンサルタント業〉

事例2-4-8 愛知県よろず支援拠点(愛知県名古屋市)

 コーディネーター 多和田 悦嗣 氏

【支援先の事例】 ニット ナゴヤ(愛知県名古屋市)

   代表 谷口 清昭 氏

  〈ベビー服の製造・販売業〉

事例2-4-9 岡山県よろず支援拠点(岡山県岡山市)

 コーディネーター 鈴鹿 和彦 氏

【支援先の事例】 有限会社 楓(岡山県新見市)

   代表取締役 井上 富男 氏

  〈飲食サービス業〉

事例2-4-10 宮崎県よろず支援拠点(宮崎県佐土原市)

 コーディネーター 長友 太 氏

【支援先の事例】 Bridge the blue border(宮崎県児湯郡高鍋町)

   代表 多田 佳司 氏

  〈一級建築士事務所、レンタルハウス業〉

事例2-4-6:北海道よろず支援拠点
コーディネーター 中野貴英氏(北海道札幌市)

北海道よろず支援拠点 コーディネーター 中野貴英氏(前列中央)

都市銀行時代の経験を活かす。
どんなことでも相談される身近な存在に。

北海道よろず支援拠点のコーディネーターである中野貴英氏は、都市銀行、コンサルティング会社を経て平成19年に「アステップ経営」を創設。公職として「中小企業応援センター事業」コーディネーター、「中小企業支援ネットワーク強化事業」ネットワークアドバイザー等を務めている。

企業経営の支援に携わってから15年以上が経ち、多くの経営者に会い、様々な悩みを聞いている。初めての相談では「こんな悩みを相談していいのですか?」「何をどう相談していいかわからない。」などと言われることがあった。だから、いつも大事にしていることは、どんなことでも安心して相談される身近な存在になろうということ。経営の悩みは幅が広く、悶々とされている経営者も少なくない。そのような中で、いわゆるビジネスドクターとして、何が本当の課題なのかを聞きながら整理して、その課題を解決するための対応策を提案するという役割を担っている。

あら捜しをするのではなく、可能性を探す。
北海道が元気になるように支援。

中野氏は、「相談支援では、やりたいことをすべて聞き取り、優先順位をつけて計画を立てるようにアドバイスしています。小規模企業では、やりたいこととすぐにできることとは乖離があるので、順位付けをして前進しているということを実感できることが大事だと思うんです。あら捜しをするのではなく、可能性を探しながら応援することを大切にしています。」と語る。

また、相談を受けるにあたっては、自分のビジネスとの兼ね合いに悩んだが、北海道が元気になるようにすることが大切だと考えた。

「企業が元気になれば、民間のコンサルにも仕事は増えると思うのです。まずはいい会社をたくさん作ることが大事。コーディネーターとしては、月間180件程度の相談を受けていますが、手一杯ではありません。」という。

北海道ならではの悩みも出張相談で対応。
対面の空気を大切に。

北海道は面積が広いため、相談に来たくても来られない場合もあるので、昨年秋から「出前相談会」を開催している。たとえば地方の信金や会計事務所のクライアントなどを対象に、コーディネーターが出向いて終日相談を受けている。電話では顔が見えず話しづらいこともあるので、対面での相談を大切にしているという。

支援先の事例:有限会社 きなこ菓子工房(北海道札幌市)

(菓子製造販売業)

〈従業員2名、資本金400万円〉

代表取締役 本間勝司氏

「建築業界から和菓子の製造・販売へ」
「OEMからの脱却で事業再構築」

◆事業の背景

建築業界から和菓子業界に転身。
国産にこだわり、10坪のスペースで製造・販売開始。

有限会社きなこ菓子工房は、平成10年に創業して16年目になる会社である。代表取締役の本間勝司氏は、建築関係の会社でサラリーマンをしていたが、10年ほど勤めたあと自分で商売をしたいと考えて会社を辞め、修行をするために札幌市内の和菓子製造会社に転職した。ところがその会社が倒産、自分で会社を立ち上げることにした。そして、先輩であった和菓子職人とともに国産原料にこだわった和菓子の製造販売会社を創業した。その和菓子職人が現在の工場長である。

創業当時は、10坪にも満たないような小さなスペースを借りて、和菓子を製造し、全国の百貨店の物産展に持ち込んで販売していた。

きなこ菓子の製造は、水飴を溶かして「きなこ」を加え手で練るので、必要な設備は水飴を溶かす釜が1台あれば十分である。しかし工場長は、鍋だけはオーダーメイドで調達。水飴や「きなこ」などの原料は北海道産にこだわった。

初めの5年くらいは全国を回り、北海道物産展などでお客さんと対面して製造を実演しながら試食販売を行っていた。これは非常によく売れた。懐かしいという感覚があったのか、大都市よりは東北などでよく売れた。本間氏は、「実演する暇もなく、商品を並べるだけで売れることもあり驚きました。」と当時を振り返る。

きなこ菓子商品

◆事業の転機

OEM販売が裏目に。
コーディネーターと出会って事業再構築。

百貨店などの北海道物産展に出展するようになってから、電話注文なども入るようになってとんとん拍子で売上が伸びていった。当時は、北海道物産展の人気も高く、交通費や宿泊費などの公的補助もあった。しかしその後は、景気の後退によって公的補助が無くなり、さらに主催者から経費負担や広告料を要求されるようになった。一方では、全国のスーパーや量販店が、買い取り方式の北海道フェアを開催するようになっていった。そこに参入することで、スーパーなどから菓子問屋に引き合いが来るようになってきたが、多数のスーパーなどから注文が入るため、受注額が何百万円単位と量が多くなり製造が間に合わない。そこで、創業10年目に、同じ手稲地区に新たな店舗を開設し、製造設備を整備した。

新たな工場は、餡子を練る機械を入れて、餡子を使った新商品を作り、小売も行った。「きなこねじり」だけでなく、メロン味やハスカップ味なども試してみた。しかし、色や香り付けが難しいため、着色料やフレーバーを使わざるを得ず、無添加という同社の路線とは相容れないため製造を諦め、「大豆味」「ごま味」「抹茶味」「香煎味」の4種類を製造・販売した。

その後、さらに転機が訪れた。自然食品にこだわった通信販売会社と縁ができ、相手先ブランド商品を卸すようになったのである。いわゆるOEM供給である。さらに卸問屋へもOEM供給を行い、売上がうなぎ登りに増加した。それらの商品は、味や無添加であることは基本的に変えないが、デザインやパッケージなどは相手先の要望を受け入れた。そして、増産に対応するため、3年前に手稲の最初の拠点を閉鎖して現在地に移転、新たに設備も導入し生産の安定化を図った。

しかし、「判断を間違えてしまったようです。OEM販売に頼ってしまったことが失敗の大きな原因でした。」と本間氏は語っている。

OEMは相手先の要望事項が多いため、対応が大変で、先方の状況に大きく左右される。当時は、OEM販売が売上全体の半分以上を占めていたため、OEM供給先での売れ行きが落ち始めると、業績が悪化して資金的な負担が重くなり、最終的には創業時の店舗の閉鎖も検討せざるをえなくなった。ネットなどで弁護士事務所などの相談先を探してみたが、弁護士からは、資金があるうちに廃業するように勧められてしまった。

回復は無理なのかと考えた時期もあったが、その後、「北海道よろず支援拠点」を知り、コーディネーターに出会ったのである。

商品は手づくり
“きなこねじり”の裁断

◆事業の飛躍

気を取り直し得意先回り。
国産へのこだわりが評価される。

北海道よろず支援拠点のコーディネーターである中野貴英氏からは、「まだ十分に事業継続ができる」という意見をもらった。数日後に計算書を持参し、その場ですぐに売上をどのくらい伸ばせれば局面を打開できるか、そのためには月間の売上をどの程度にすればよいかを試算した。その結果、売り先を絞って事業を立て直せば何とかなることがわかった。

「とにかく、大丈夫だと気持ちを立て直してもらったのが一番でした。」と、本間氏は語っている。

中野氏のアドバイスで気を取り直して、以前に取引があった販売先や見込客先を回り始めたところ、少しずつ取引先が増えていったという。

今年の1月から新たに増えた売上は、月当たり150〜200万円。OEMの落ち込み分をカバーできる見込みになってきている。

スーパーでは、他社の商品は菓子コーナーにあるが、同社の商品は国産コーナーに陳列されており、単価は高いが売れている。安心・安全が評価されているようだ。また、OEM供給では、一つずつ包装しなければならないが、問屋経由の商品は個別包装ではないため、作業効率も格段に上がり、利益率が良くなったという。

◆今後の事業展開と課題

発祥地への再出店を目指す。
新商品開発より全国への周知を優先。

手稲では、「手稲箱だんご」という地域独自の商品を販売していたので、地元の人たちが買ってくれていた。そのため、店を閉鎖した際には残念がる人も多かった。

「店の再開が地元のフリーペーパーで紹介されると喜んでもらえました。この地で生産ラインを確立できたら、初心に戻って再度出店したいと考えています。これからは、新商品開発より、まずはもっと全国の人に広く知ってもらうようにしたいですね。」と、本間氏は今後を語ってくれた。

事例2-4-7:岩手県よろず支援拠点
コーディネーター 伊藤 朗氏(岩手県盛岡市)

岩手県よろず支援拠点 コーディネーター 伊藤 朗氏

いわて産業振興センターと連携。
民間のコンサルタントがシフトを組んで相談にあたる。

岩手県よろず支援拠点コーディネーターである伊藤朗氏は、高等専門学校を経て原子力系メーカーで建設全般の施工管理を15年経験。その後、事業再生に関わる企業支援を経験した後、現在は経営コンサルティング会社を経営している。

よろず支援拠点は、民間のコンサルタントで構成するコーディネーターがシフトを組んで相談に当っているため、各人とも週5日フル出勤というわけにはいかない。無料相談は原則出張で対応、相談回数の制限などはなく、毎週来ている経営者もいるという。

コーディネーターは5名が所属、深い専門性を要求される相談については、いわて産業振興センターと協力して企業支援にあたっている。

その人に合わせた支援。
紙やホワイトボードの上での失敗経験を。

昨年6月末の相談開始から今年の1月までに、創業相談は約240件。内容は様々だが、特に女性の場合は、自分のやりたいことを好きな時間に仕事を始めたいという、今回紹介した支援先である早野こずえ代表のような方が多いという。

伊藤氏は、「中小企業や小規模企業の支援は、融資制度や補助制度を使ったということが出口なのではなく、きちんと事業を始めて、安定させることが大切。『商い=飽きない』で続けていくには、自分の環境や自分自身の充実を両立させながら、少しずつ取り組んでいくことも大切です。まずは、頭の中で考え、紙やホワイトボードの上で失敗をシミュレーションするイメージです。そうすることにより、自分なりの目標ができてくるんです。」と話す。

将来、ビジネスとしてのコンサルに戻るよう支援。
第2弾ロケット的な支援も必要。

また伊藤氏は、「よろず支援拠点は、自身の経営する民間コンサル会社と競合する部分もありますが、コンサル活用の良さを知ってもらえればいいと思って支援しています。創業支援制度はありますが、創業後2年、3年後の事業者に対する支援策がありません。よろず支援拠点における創業の定義はおおむね3年以内としているので、創業期に続いて踏み込んが第2弾ロケット的な支援もあるといいと思っています。」と語っている。

支援先の事例:ヴィヴ・レ・ママン(岩手県花巻市)

(コンサルタント業)

〈従業員1名〉

代表 早野こずえ氏

「自らの体験・スキルを活かし、
ママたちの社会復帰を応援」

◆事業の背景

二人目の出産後、社会貢献活動組織でパート事務。
“仕事と生活の調和”が難しく、体調を崩す。

vive les mamans (ヴィヴ・レ・ ママン) フランス語で「ママたち万歳」という意味の屋号を付け、フリーランスで秘書技能検定講座、接遇マナー研修の事業を起業したのは、早野こずえ氏である。

同社は、その他にサービス接遇検定・ビジネス文書検定・ビジネス電話検定の指導、内定者・新入社員研修、キャリアカウンセリング、キャリア教育、パーソナル・ブランディング、ワークライフバランス・コンサルティング、ホテル・エアライン受験対策などの研修事業を企画している。

早野代表は現在36歳、二児の母である。大学卒業後、東京のベンチャー企業等で秘書をしていたが、その後、地元の花巻市にUターンし、正社員で医療事務の仕事をしていた。当時の交際相手(現在の夫)の急な転勤に伴い、結婚を機に関西へ。5年間勤めた正社員の仕事を退職した。

関西で子どもが一人生まれ、2年ほどして花巻に戻ってきた。その3か月後には、東日本大震災に遭遇する。所得の低い地方都市では経済的に厳しいため、子どもが1歳になるのを機に社会復帰しようと考え、派遣社員や臨時職員、パートなどの非正規労働者を経験した。そこで初めて、子どもを育てながら働くということの大変さを実感する。子どもが保育園に通うようになっても、たびたび熱を出すなど、目が離せない状態が続き、職場との狭間で苦しんだ。正社員ではないので育児休暇を取ることができなかった。

二人目の出産の際は、産後1ヵ月ぐらいから、体が完全でない中で就職活動を始めるしかなかった。

起業したきっかけは、二人目の妊娠中に参加した起業セミナー。主催者が、小規模保育やママたちのエンパワーメントなどの活動をしている団体であった。その縁で主催者であったNPO法人に就職し、パートタイマーとして事務局を担当した。しかし、産後間もなく子育てをしながらの昼夜を問わずの労働で、自己管理ができないような状況となり、疲労と寝不足は蓄積していく。生後2ヶ月から第二子を預け、一人目の子育てでは経験しなかった搾乳をしながらの家事や育児、事務の仕事は身体を蝕んでいった。志は高いとはいえ、出産後2ヶ月から働かなければならない状況では、産後の体を大事にする余裕はなかった。結局、過労とストレスで母乳が止まり、帯状疱疹や結膜炎になるなど、ついに体を壊してしまった。

◆事業の転機

地方在住者の自己実現を目指す。
よろず支援拠点に相談して起業。

体調を崩したことを機に、自身の働き方やライフスタイルを見直し、NPO法人で築いたネットワークと人脈、そして自分の強みを生かした事業を起こそうと決意した。

専門学校等の学べる場がほとんどなく、求人が乏しい地方や沿岸被災地の人たちを対象に、子育て中の母親の仕事を支援する「ビジネスマナー」や「接遇マナー」、「秘書検定」を指導しようと思い立った。

花巻での起業を考えていたので、中小企業支援センターの「窓口相談コーディネーター」に電話でまず相談した。その後、よろず支援拠点が開設されたので、IT活用を重点に、10回ほど相談に出向いたという。

「通常1時間のところを2時間お話しすることもあり、じっくりと相談できました。そもそも最初にインターネットで調べたときには、堅いイメージのところだと思っていましたが、まったくそのようなことはなく、ざっくばらんに話すことができました。元気をもらえる、何度でも通いたいと思う、心のオアシス的な存在でしたね。」と、早野氏は当時を振り返る。

◆事業の飛躍

釜石・陸前高田でスクール事業開始。
メニューを絞ってオーダーメードで対応。

岩手県では、大都市と比べて秘書技能を学べる環境は少ない。学生向けには専門学校などがあるが、社会人や主婦向けには気軽に行けるスクールはなかったという。

そこでまず釜石市で母子支援をしているNPO法人主催で講座を開いたところ、陸前高田市からも要請があり、いずれも全10回のスクールを開催し、現地での団体受験(「公益財団法人実務技能検定協会」に登録することによりスクールで団体受験することができる)を実施した。陸前高田市では、女性の活躍する場をつくる活動をしている団体から依頼があり、仮設の貸スペースなどを利用し講座を展開した。

初めはたくさんのメニューを用意したが、よろず支援拠点のコーディネーターである伊藤朗氏に相談するうちに、初めは「あれもこれもできます」ではなく、わかりやすいところから始めて、評判が得られれば口コミなどで展開できると考え、現在は「サービス接遇の企業研修」と「秘書技能検定講座」を軸として活動している。その内容は、それぞれのニーズに合わせてオーダーメイドで行うこともできるという。

スクールの様子〔1〕
スクールの様子〔2〕

◆今後の事業展開と課題

新たなネットワークの構築。
ペース配分を考え事業の継続を目指す。

働きづらさ、生きづらさ、もどかしさを抱えている女性は実に多い。

「地方にいるとスクールに行きたくてもそれが近くにないという事情があるので、全国の地方都市や沿岸被災地に“出張出前型”で出向いてスクールを開催したかったんです。そして何よりも、震災後に人生観や職業観が変わったことが大きかったと思います。」と、早野氏は仕事への想いを話す。

また、「いわて連携復興センター」のコーディネーターが間に入り、つないでくれていることも大きいようだ。早野氏は、2015年3月に仙台で開催された「国連防災世界会議」の公式プレイベント「国際地域女性アカデミー」の参加者としても推薦され、東北と世界で活躍する女性リーダーたちとつながった。そこで被災3県(岩手県・宮城県・福島県)の新たな仲間ができて、現在では宮城県と福島県からも声がかかり、これまで頑張ってきたことが実を結び始めている。震災後の緊急支援から始まり、現在も草の根レベルで活動をしている国内外のネットワークと、グローバルにつながりを拡げている。

これまでは、釜石市や陸前高田市では平日の昼間にスクールを開催していたが、参加者のニーズを把握しながら、曜日や時間帯を検討する必要があると考えている。さらに今後は、地元の花巻市でも開催する予定だ。

また、半年ほど前から、コーディネーターの指導のもと、Facebookやブログを始めた。その“情報発信力”は、思いがけない貴重な人たちとのつながりを生み出している。

早野氏は、「今後は、誰もが体を壊さないよう『ワークライフバランス(仕事と生活の調和)』に重点を置き、『男女共同参画』も推進しながら持続可能な事業を進めていきたいですね。」と元気に語ってくれた。

セミナーの参加者と

事例2-4-8:愛知県よろず支援拠点
コーディネーター 多和田悦嗣氏(愛知県名古屋市)

愛知県よろず支援拠点 コーディネーター 多和田悦嗣氏

地域の中小企業の相談役で貢献。
民間企業で永年培った経営ノウハウを活かしたい。

愛知県よろず支援拠点の多和田悦嗣コーディネーターは、東京に本社のある大手飲料メーカーの役員を辞めて実家のある地元に戻った。民間企業OBとしての多様な経験や実績、人脈を乞われて、平成23年4月から公益財団あいち産業振興機構の統括マネージャーに着任した希少な人材。前職では、生産技術部門の責任者や技術戦略等の担当役員を歴任しており、この経験を活かして、市場分析からマーケティング、バイヤーとの交渉など、主に販路開拓で年間600件を超える相談に対応している。

多様な専門人材で相談支援チームを編成。
相手から求められれば何回でも相談。

あいち産業振興機構は、昭和46年に愛知県中小企業振興公社として設立。平成26年6月には、愛知県の「よろず支援拠点」がスタートし、経営上の悩み等の相談に民間企業OBや様々な分野の若手専門家など、総勢13名のコーディネーターとサブコーディネーターが対応あたっている。ニットナゴヤの相談支援を担当した多和田氏は、この「よろず支援拠点」のリーダーを務めている。

「よろず支援拠点」の設立以来、同年末までに約1,600件、約800社の相談に対応したという。「相手から求められれば、無料で何回でもどうぞ。」という相談支援の方針で、延べ15回にわたる相談に対応したこともあるという。

相談者の顔ぶれは、小規模事業者や個人事業者が多く、製造業は約3割程度で、サービス業や小売業の比率が高いという。

相手と同じ目線で一緒に考える。
経営者のもつポテンシャルを引き出す。

多和田氏は、相談を受ける際に相手の話をしっかり聞き、悩みの背景も合せて把握するようにしている。「なぜ現状のような問題が起きているのかを考え、今後の事業展開においてその企業のもつ、経営者も気づいていない経営資源や課題を整理し、経営者のもつポテンシャルを最大限に引き出したい。」と考えている。決して考えの押し付けはしない。リスクは最終的に経営者がとるべきもので、あくまで対応策の提案を相手に寄り添って行うこと“伴走型の支援”を信条としている。

ニットナゴヤ代表の谷口清昭氏に対する支援では、「商品である赤ちゃん肌着の品質が大変良いことは実際商品をみればわかりますが、その価値をどう消費者に伝えるかが課題でした。」と、多和田氏は振り返る。

そのためのちょうど良い機会として、公的な場でプレゼンを行うという、あいち産業振興機構の事業である「ビジネスプラン発表会」の公募案内を谷口氏に紹介し、無事発表者に採択された。そして、コンセプト資料をはじめプレゼンのための周到な資料準備を支援し、平成26年9月にビジネス関係者やマスコミに対しプレゼンを行った。さらに、地元テレビ局に谷口氏を紹介したところ、テレビ放映後、商品を扱っている地元デパートに多くの問合せが寄せられ、1か月で1年分の売上を達成することができたという。

多和田氏は、支援にあたり「相手と同じ目線で、一緒に考える姿勢を持ち続け、あまり費用をかけないでできることを、自分なりに知恵を出して提案し続けるようにしている。」と支援者としてのポリシーを語っている。

支援先の事例:ニット ナゴヤ(愛知県名古屋市)

(ベビー服の製造・販売業)

〈従業員0名〉

代表 谷口清昭氏

「セカンドライフでベビー服のファブレスメーカーを起業」
「消費者・バイヤーの視点からの販路開拓支援を受ける」

◆事業の背景

臨床検査技師からセカンドライフを求めて転身。
子どもの健康管理への貢献を目指し60歳で起業。

自分の人生を振り返るときに、1つの仕事を天職として全うするか、あえてチャレンジを求めて転身するか、人それぞれにターニングポイントがある。ニットナゴヤ代表の谷口清昭氏は、35年間たずさわってきた臨床検査技師の仕事を55歳で退職。第二の人生を求めての大きな決断だった。

谷口氏は、「臨床検査技師時代には、主に大人の健康管理に関わってきましたが、孫のアトピーをきっかけに、これからは子どもの健康管理に関わる仕事をしたいと考えました。」と、当時を振り返る。

さてどんな仕事にしようかと考えているときに、たまたま知り合った東海ニット工業組合の鵜飼専務理事から、アトピー肌にやさしい素材である「オーガニックコットン」を紹介された。さっそく鵜飼氏から助言や協業先の紹介を受け、オーガニックコットンを素材に、生地づくりや編みたて、色づかいなどで試行錯誤をくりかえしてベビー服づくりに挑戦した。しかし、そう簡単には目指す商品はできない。

「この間も生計をたてるために、病院での臨床検査の臨時仕事を入れながら、新事業への挑戦を続けました。」と、谷口氏は、厳しかった当時を語る。

◆事業の転機

まだ商品になっていないという評価を受けて。
こだわりの商品と洗練されたロゴデザインで解決。

平成20年、60歳の時に個人事業としてニットナゴヤの創業を決意し、ある展示会に商品出展を申し込んだが、残念ながら不採用となった。まだ商品になっていないとの評価だった。それを反省材料に、再度、東海ニット工業組合に対応策を相談、そして3cm以上の長さをもつ綿(超長綿)の採用と、糸の太さ、ゆるめの撚り(甘撚り)、ゲージ(縦糸)の編み方などを工夫することにした。こうして、100%オーガニック超長綿を使った強度と耐久性、ソフト感のある赤ちゃん向け肌着の商品化に成功した。商品化のために2年の月日が経っていた。

2重ガーゼニットで甘撚りのソフトな肌着は、一般に耐久性がないと言われていた。様々な工夫を重ねることで耐久性の目途をつけ、知り合いの助産院で試験的に購入してもらい、耐久性テストを行った。1年で使えなくなったら返品するとの約束であったが、実に3年近く500回の洗濯にも耐え、耐久性が証明された。

そして、平成23年1月に販売を開始。まずは地元名古屋のデパートめぐりを行ったが、どこも取引には至らなかったという。その大きな理由は、商品としてのデザインやラベルはもとより、そもそも商標登録ができていないのでデパートでは扱えないということだった。

その後、商品に関心をもった地元デパートのバイヤーから声がかかり、きちんとした商品にすることを条件に商談が進んだ。

デザインや商標登録については、あいち産業振興機構に出向き、知財総合支援窓口に相談した。谷口氏は、あくまでブランド名に“Pure Organic”を使いたいと思ったが、特許庁の審査では、一般的な名称での商標登録はできないと、いったん断られた。それでもこの名称にこだわり、ロゴマークを付けることでようやく申請が受理された。

しかし、商標登録やロゴデザインを専門のデザイナーに依頼をすることは、個人事業としては大きな負担となる。そこで、同機構を通じて公的な補助事業の紹介を受けて申請をしたところ、無事採択され、洗練されたイメージのロゴデザインが出来上がった。商標登録にあたっては、なるべくお金をかけないよう自分で申請したという。

平成24年2月、懸案の地元名古屋の有名デパートの取引口座が開設され、デパートでの商品販売が始まった。主な顧客は、孫への贈り物として高品質なベビー用品を求めるシニア層や、子どもに安全で肌着を着せたいという親世代であった。

赤ちゃん向けの肌着(フィットタイプ)

◆事業の飛躍

消費者・バイヤーの目線を大事に。
高品質でフィット感のある新商品を開発。

さらに商品力を高める努力は続いた。これまで赤ちゃん肌着といえば大の字型の大きめのサイズの商品が多く、赤ちゃんの肩が肌着から出る“肩落ち”が問題になっていた。こうした消費者の声を聞き、平成26年秋に、シルエットを直線的にしてよりフィット感のある商品、さらに肌触りを良くするために縫い目を外側にした高品質の新商品が出来上がった。

一方、谷口氏は当面の販路をデパートルートに定め、東京の有名デパートに足しげく通った。しかし、バイヤーとの面談を繰り返すが、なかなか進展が得られなかった。

それでも谷口氏は諦めず、粘り強い努力を惜しまなかった。商標登録の相談をきっかけに付き合っていた、あいち産業振興機構の経営相談窓口(現、愛知県よろず支援拠点)に、月に2度、3度と販路開拓の相談に通った。そして、よろず支援拠点のコーディネーターである多和田氏の支援を受けることで、今回のデパートとの取引が実現した。

谷口氏は、多和田氏から「いい商品であれば売れるはずと思いがちだが、デパートとの取引を目指すには大企業と同じレベルの提案書が必要。」と助言を受けたという。

提案書作りのちょうど良い機会になったのが、あいち産業振興機構と名古屋産業振興公社の共同事業「ビジネスプラン発表会2014」。オーガニックコットン商品の企画・販売のビジネスプランを発表する機会を得て、谷口氏は堂々とプレゼンを行った。そして、公的な支援を受けている事業者として認定され、社会的な評価も高まったという。

もともと営業経験のない谷口氏は、「文字通り手取り足とりの指導や支援をいただきました。」と振り返る。

そして、平成27年2月に、個人事業者との直接取引は極めてまれといわれる有名デパートの取引口座の開設に成功した。

多和田コーディネーターと相談

◆今後の事業展開と課題

有名デパートとの取引がブランド価値に。
自社Webサイトや提案営業で直販ルートを拡大。

現在、個人事業として、自宅兼事務所にパート二人を雇って事業を運営している。今後もデパートルートの拡大を目指しているが、一方で、販売手数料引き上げの要請が増えている。そのためには、製造原価を下げるために、より大量に生産しないといけなくなるという。

また、製造元への発注や在庫リスクへの対応が必要になっている。通常、製造元への発注から納品まで約2か月かかるが、取引先からの商品の補充の猶予は1週間で、どうしても在庫を持つ必要がある。補充がスムースにいかないと取引自体を失うことになる。

谷口氏は、「有名デパートとの取引があることはブランド価値となっていますが、今後は歩留まりのいい自社Webサイトでの販売や助産院・助産所ルートへの提案営業などの直販ルートも開拓したいと思います。」と、今後の事業の展開方針を語っている。

取引先の助産所で情報収集

事例2-4-9:岡山県よろず支援拠点
コーディネーター 鈴鹿和彦氏(岡山県岡山市)

岡山よろず支援拠点 コーディネーター 鈴鹿和彦氏

「産業振興で岡山を活性化したい。」
県職員を辞して飛び込んだよろず支援拠点。

岡山県よろず支援拠点コーディネーターの鈴鹿和彦氏は、岡山県職員を退職し、よろず支援拠点に飛び込んだ異色の人材。「当時、退職を妻に相談したところ、あきれ返った様子でした。」と語るように、それは唐突であったようだ。鈴鹿氏は、県職員時代に県内の産業支援機関の取りまとめ役でもあった。また、自身も企業支援の能力を高めようと、中小企業診断士や特定社会保険労務士、行政書士の資格を取得するなど努力家でもある。その人脈と専門知識を生かして、県内の各団体に所属する青年経済人らと付き合ってきた。そのような活動をする中で、「定期的な人事異動で産業振興以外の部署に転勤するよりは、彼らと一緒に岡山県の経済の活性化のために頑張りたい。」と考えるようになったという。

県内の産業支援機関と密接に連携。
自身のポリシーは“出前よろず支援”。

同支援拠点では、大企業の生産管理や販売を経験した企業OBや税理士、デザイナー、システムエンジニアなどの専門家を揃えて、販路拡大や生産性向上、労務相談、補助金情報など、小規模事業者の多様な相談ニーズに対応している。これまで延べ1,500件以上の相談をこなしてきたという。「特に印象に残っているのは、開設間もない時の果物の販売事業の相談でした。事業が赤字となっていましたが、パッケージング方法などで商品の見せ方を工夫した結果、贈答用として人気が出て半年後に黒字化できたときは、ほっとしたものです。」と鈴鹿氏は語ってくれた。

鈴鹿氏は、個人事業主を含め、自ら現場で仕事をしている小規模事業者を支援するためには、身近な場所で相談を受ける必要があると考え、“出前よろず支援拠点”と称し、県内の自治体や商工会議所、商工会、中小企業団体中央会などの産業支援機関と連携して、県内各地で経営の無料相談会を定期的に実施している。また、昼間どうしても店舗から離れることのできない経営者や、平日に相談することのできない創業予定のサラリーマンの方々のために、夜間や休日に無料相談を行っているとのこと。「なので、ほとんど事務所にいる間がありませんね。」と嬉しそうに語った。

予想を上回る相談に悪戦苦闘。
“伴走型の支援”で小規模企業を元気にする。

しかし悩みもある。開設以来、予想をはるかに超える相談を扱うことになり、アフターフォローができていない案件もあるという。

「そういった方々に対して丁寧な対応を行う必要があります。今後は、きっちり課題が解決するまでお手伝いしたいと考えています。」

同支援拠点では、政府の掲げる地方創生のためには、中山間地域を含めた岡山県の小さな企業が元気になる必要があると考えている。今回取り上げた有限会社「楓」の事例もその一つ。

「そのためには、公的な立場で、しっかりと地域の中小企業・小規模企業の方々へ“伴走型の支援”を行っていきたいと考えています。」と、鈴鹿氏は抱負を語ってくれた。

支援先の事例:有限会社 楓(岡山県新見市)

(飲食サービス業)

〈従業員4名、資本金300万円〉

代表取締役 井上富男氏

「地域の支援を受けながら波瀾万丈の人生を踏破」
「気がつけばリーダー格として地域の活性化に貢献」

◆事業の背景

店を持ちたいという志が通じた。
店主として独立、27歳からの挑戦。

岡山駅から特急電車で約1時間、新見市は岡山県西北部吉備高原上に位置する中山間地域にある。古くから、江戸幕府直轄の天領地として石灰石や砂鉄を溶かした「たたら製鉄」で栄え、平成17年に旧新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の1市4町が対等合併し、現行の新見市が誕生した。

有限会社 楓の代表取締役である井上富男氏は、この新見市で大衆食堂を営む両親の元に生まれた。幼いころから見よう見まねで料理に慣れ親しみ、卒業後はホテルのフレンチ料理人として生計を立てていた。「それでも何か物足りない。いつかは自分の店を持ちたかった。」と語っているように、いつもいい物件はないかと目を光らせていた。しかし、十分な資金はなく、条件の良い話は簡単には出てこない。そこに舞い込んだのが、合併前の哲多町が公設民営のレストランを新設するという話。井上氏は後先もなく話に乗った。そして平成5年、今回の舞台である哲多食源の里「祥華」の運営を任されることになったのだ。「喫茶店でもなんでもよかったんです。ただ自分の店が持ちたい一心でした。」

念願が叶った平成5年は、皇太子・雅子さまご成婚の年でもあり、インターネット元年ともいわれ、少し明るい話題が世の中に踊っていた時期。「お金も経営経験もない。ただあるのは料理への愛着と気力だけ。それで十分だった気がします。」

少し無謀ともいえる船出。井上氏は27歳になっていた。

哲多食源の里「祥華」

◆事業の転機

順風満帆な経営で事業を法人化。
しかし一転、借金地獄に転落。

「祥華」のコンセプトは地元の山菜を使った薬膳料理。施設や調理器具、食器などは哲多町が準備してくれたが、食材集めや調理、接客などはすべて一人でこなさなければならない。井上氏はスタッフ5人を雇い入れ、昼夜寝る間も惜しんで薬膳料理を独学で勉強しながら、妻の和美さんとともに店を切り盛りした。宴会需要を見込んで哲多町から中古のバスを買い入れ、自ら送迎バスのハンドルを握ることもあったという。そのような努力の甲斐もあって、来客数は少しずつ増え始め、開業12年目には年商は9千万円を超えて経営は順風満帆。自身の事業会社を法人化した。

しかし、順調な日々はそう長くは続かなかった。

「祥華」はもともと人里離れた山中にあり周辺からのアクセスが悪い。看板の薬膳料理の新規性も薄れていく。来客数はみるみる減っていき、気が付けば売上は最盛期の半分近くにまで落ち込んでいた。状況を打開しようと食材を変えてみたり、空調などの設備を交換してみたりと対策を講じてみるものの、その場しのぎの付け焼刃では一向に効果が出ない。逆に運転資金調達のために金融機関からの借り入れを重ねるようになり、4千万円の借金の山を築いていた。加えて、父親の生前の負債までも背負うことに。借金で借金を返済する多重債務生活の中で、井上氏は5人の子供を抱えながらも必至に生きていた。「いっそすべてを投げ出して自分自身も消えてしまおうかとも考えていました。」当時の苦しい状況を、井上氏はこう振り返る。普通ならば、このあたりで事業の幕を引くところ。しかし井上氏はまだ諦めていなかった。自分をいくら恥じても何も解決しない。井上氏は遂に意を決して、すべてを打ち明けて助けを乞う覚悟を固め、以前から相談にのってもらっていた阿哲商工会に駆け込んだ。

◆事業の飛躍

商工会と二人三脚で事業を再生。
49年の苦労多き人生が報われた。

阿哲商工会の経営指導員である志田陽祐氏は、前任者からの引継ぎ案件として井上氏の話をじっと聞いていた。かなり重症である。しかし志田氏は、「売上がないわけではない。即効性のある集客戦略と債務の整理を行えば、再生することができる。」と確信した。その判断の基には、井上氏の大人しいが素直で人を引き付ける誠実さがあったからだという。

志田氏は、岡山よろず支援拠点コーディネーターである鈴鹿和彦氏と連携しながら、すぐに行動に出た。経営革新計画制度を活用し、承認を得た後、債務内容を確定し、法人と個人に債務を整理、各金融機関の協力を取り付けて返済計画を立てた。まずは経営者である井上氏の生活基盤を固めるためだ。

次は集客戦略である。通常、集客を高めるには、商品の魅力を向上させることと、どのようにして顧客にリーチしてその魅力を伝えるかという両面を考えていかなければならない。そこで志田氏はまず事業計画を綿密に練って、再生へのロードマップを作る。それに基づき、新しいメニューの開発に取り組んだ。それにはレストラン経営に精通した専門家の助言が必要である。そこでアドバイザーとして岡山の有名ホテルのシェフに教えを乞うた。食材選び、調理法、盛り付け、接客など、井上氏はスタッフとともに一つひとつ学びとっていった。そして出来上がったメニューが「祥華御膳」。旬の野菜や川魚の天婦羅、お刺身、小鉢を配した「祥華御膳」は、「祥華」の看板メニューとなっていった。また、高齢者が多い来客者に配慮して、お座敷に大きなテーブルを配置した。これらの魅力を市内外のツアー会社にアピールし、新見観光ツアーへの組み込みに成功。現在では、年間4万人の来客を市内外から呼び込み、リピート率も90%に達しているという。「祥華」の業績も年商1億円を超えるまでに急回復し、スタッスも22名に増員、子育て支援施策を打ち出して地域の雇用創出にも一役買っている。

「まだ借金は残ってますが、本当に諦めずに続けて良かったと思います。」

49歳になった井上氏の笑顔は、すがすがしい。

四季の彩り「祥華御膳」

◆今後の事業展開と課題

家族で育てた新見の新しい名所。
青年部部長として地域の活性化に奔走。

井上氏は、平成26年には公営であった店舗「祥華」を買い取り、名実ともに一国一城のオーナー経営者となった。また、カフェレストラン・スズランを新見市内に開店、妻の和美さんも新見市内に焼肉店を開業するなど、事業の多角化にも挑戦している。

また、大人に成長した5人の子供たちも、年末の繁忙期には帰省して総出で手伝ってくれるという。「妻の後押しがなかったら、ここまで来れなかったと思います。」と井上氏は妻への感謝も忘れない。そして今では、商工会青年部の部長として新見市の地域活性化に奔走している。「お客さんはじめ、地域のみんなが喜ぶ姿が一番の支えです。」家族が団結し地域の再生を願う井上氏の姿は、新見市の将来を明るく照らしているような気がする。

井上氏は市外への進出も計画中とのこと。「まだまだ。これからです!」諦めない優しい努力家は、まだまだ高く遠くへ羽ばたくチャンスを窺っているようだ。

話を聞きながら、井上氏の人生の歩みや家族の団結力が、地方再生へのひとつの道標となるようで頼もしく感じた。

テーブルを配した座敷間

事例2-4-10:宮崎県よろず支援拠点
コーディネーター 長友 太氏(宮崎県佐土原市)

宮崎県よろず支援拠点 コーディネーター 長友 太氏

県内各地の過疎地勤務を経験。
地域住民との交流が支援の第一歩。

宮崎県よろず支援拠点コーディネーターの長友太氏は元銀行員。大学卒業後に地元銀行に入行、本支店勤務を経て関連の研究所を最後に44歳で退職、公募に手を挙げて宮崎県産業支援財団(現宮崎県産業振興機構)へ転職した。「お金まみれの仕事に少し疲れたのかもしれません。」と長友氏は冗談っぽく語る。「でも銀行員時代に中小企業診断士の資格を取っていたので、この先も仕事は何とかなるだろうと、あまり深刻ではなかったですね。」そして昨年、よろず支援拠点の創設とともに応募し、コーディネーターとなった。

長友氏は大学生時代にバイト先からよく入社を勧められたという。「接客のバイトが多かったのですが、人付き合いがうまかったのでしょう。」というように、地域の人たちとの交流が楽しくて仕様がないという。また大学生時代3年間、お遍路の添乗員をしていたそうだ。「お遍路は弘法大師が1200年前に築いた持続的地域おこしのビジネスモデルだと思うんです。お手本ですね。」自らの経験や専門知識を武器に、地域の人たちと交流しながら、地域おこしの仕組みづくりに東奔西走している。

圏域をカバーするサテライト拠点を整備。
専門家集団が徹底的に企業を支援。

宮崎県よろず支援拠点のコーディネーターは現在5名。そのうち4名が中小企業診断士という専門家集団である。宮崎県は南北に広い。また山が海岸まで迫っているため中山間地域も多い土地柄である。そのため延岡、日南、都城にサテライト拠点を設置し、コーディネーターが持ち回りで無料相談を行う一方、中山間地域担当を置いて、きめ細かな支援体制を敷いている。

地域の特徴としては、従業員2〜3名程度の小規模企業が多いこと。業種はサービス業、飲食業、小売業、建設業と多岐にわたっている。このような小規模企業の経営者は一人ですべての経営判断をこなす必要があるため孤立しがちである。コーディネーターは、どんな些細なことでも、成果が出るまで何度でも徹底的に相談にのることを心掛けているという。「どんな企業でも何かしらの『強み』を持っているはず。それを探求することが大切です。」と長友氏は語っている。

小規模企業の後継者問題が課題。
若手後継者の創業が救世主か。

「売上を伸ばしたい」「販路を開拓したい」「運転資金を調達したい」など企業の課題やニーズが分かれば、解決方法はいくらでもある。また食材が豊富な宮崎県の特性を生かし、フードビジネスなどにフォーカスしたセミナーやワークショップも効果が出始めている。しかし、家族経営が多い小規模企業にとって後継者問題は悩みの一つである。事業承継が出来ないための廃業が増えている。「廃業に向けてのソフトランディングをお手伝いすることも支援の一つではあるのですが、それは地域の衰退を招きます。今回紹介した支援先である多田佳司氏の事例のように、若い後継者による起業が地域の活性化を先導することを願っています。」長友氏は地域おこしの次の一手を考え始めているようだった。

支援先の事例:Bridge the blue border
(宮崎県児湯郡高鍋町)

(一級建築士事務所、レンタルハウス業)

〈従業員0名、資本金150万円〉

代表 多田佳司氏(左から2 人目)

「建築と地域の暮らしの関係性」を追い求める」
「宮崎の豊かな自然が育む地域のコミュニティ」

◆事業の背景

研究テーマは「建築と地域の暮らしの関係性」。
テーマの具現化を求めて宮崎に帰郷。

宮崎県高鍋町の日向灘を一望できる小高い丘の上に、一風変わった白くて細長い木造建築が建っている。大きな屋根と玄関の広い屋根付きガレージが特徴的だ。建てたのは「Bridge the blue border」代表の多田佳司氏。名称は「M&R HOUSE Project(ハウスプロジェクト)」。M&Rとは、モデルハウス、レンタルハウスの意。その名の通り、この建物は多田氏が提唱するコンセプト商品「大きな屋根とガレージのある家」のモデルハウスであり、地域の人たちが集うためのレンタルハウスだ。

地元で活躍する若手の作家達が作品の展示を行ったり、流通に乗らない農産物や加工食品、家具、雑貨などを地域の人たちが持ち込んでバザーを行ったりしている。また、それらを求めて県内から家族連れで訪れる人たちも多く、コミュニティの拠点としての役割を果たしているという。

プロジェクトを主宰している多田氏は、宮崎県内の高専を卒業後、愛知県の大学で建築を学んだ。研究テーマは「建築と地域の暮らしの関係性」。大学卒業後も研究テーマを実践すべく静岡や東京で住宅メーカーや設計事務所、デベロッパーに勤めていた。その間に一級建築士の資格も取得し、それなりに都会での生活を送っていた。

「会社勤めですから公共事業の仕事もこなしていましたが、やはり戸建て住宅へのこだわりは持っていました。」

転機が訪れたのは34歳の時。宮崎で自身も職人である父親が営んでいた工務店の後継者問題がきっかけだった。

「父の会社を継ぐこともそうでしたが、自然豊かな故郷で自分なりに『建築と地域の暮らしの関係性』というテーマを具体化してみたいとの想いが強かったですね。」

多田氏は荷物をまとめて東京を後にし帰郷、父親の有限会社「多田工務店」に入り、住宅設計や商品企画を担当することとなった。

モデルハウス「大きな屋根とガレージのある家」

◆事業の転機

郷里で追い求め続けた研究テーマ。
ついに拠点となるモデルハウスが竣工。

平成23年に宮崎に帰京した多田氏は、多田工務店で住宅の企画や設計を担当する傍ら、新しい住宅の商品開発にも取り組んだ。前述の「大きな屋根とガレージのある家」は、すでにこの頃企画され、多田工務店の開発商品としてパンフレットに掲載されている。また、平成24年には経営革新支援制度を利用して、家具の開発なども行っている。「住宅という空間に調和する家具や調度品を提案することも大切だと考えています。」と多田氏は語る。宮崎県よろず支援コーディネーターの長友太氏との出会いも、この時期である。

翌平成25年に、多田氏は自らが追い求めるテーマ「建築と地域の暮らしの関係性」を“M&R HOUSE Project ―モデルハウスの地域利用―”というコンセプトにまとめて、グッドデザイン賞に応募した。その中心となるのがモデルハウス「大きな屋根とガレージのある家」。しかしこの時には、まだ実物が無い。何とか実現しようと父親に掛け合うが、昔気質の職人でもある父親の理解は、なかなか得られなかった。とはいえ建築には1,500万円程度の資金が必要となるため個人の能力を超えている。よろず支援拠点コーディネーターの長友氏に相談しながら悩んだ末に、個人事業「Bridge the blue border」を立ち上げることとし、創業支援制度を活用して金融機関からの借入を起こすことにした。幸い多田氏は、多田工務店からの設計業務の請負収入があり、モデルハウスのレンタル料も見込めるため、事業計画は立てやすかったという。

こうして、念願のモデルハウスが平成26年に竣工し、多田氏の地域における大いなる実証実験“M&R HOUSE Project”が始まった。

◆事業の飛躍

モデルハウスで定期イベントを開催。
地域に新たなコミュニティが生まれ始めた。

モデルハウス「大きな屋根とガレージのある家」は“M&R HOUSE Project”のプラットフォームだ。大きなガレージは、生活を豊かにする屋外の自然と居住空間である屋内が交流する中間空間としての特徴を持っている。

モデルハウスでは、年2・3回見学会と称して、農家や商店、サービス事業者、アーティスト、ミュージシャンなどが出展・出演してイベントを開催し、地域生産者と地域生活者との交流を活性化する取組を行っている。ユニークなのは、商品を販売した場合には“おまけ”を付けることをルールとしている点だ。“おまけ”とは、売り物にならない農産物や料理のレシピ、歌や演奏など何でもいいそうだ。加えてコーヒーや軽食も来場者に提供し、知らない人同士が自然にコミュニケーションをとれるような工夫を行っている。

また、企業や個人でレンタルすることも可能で、展示会や食事会などに利用することができる。日常生活を少しだけ忘れて、「大きな屋根とガレージのある家」に地域の人々が集まり交流を図る。まさに「建築物が地域の暮らしを関係付け」ているようだ。

「多田さんを中心に、いろいろな才能をもつ人たちが集まり始めてますよ。」多田氏と活動をともにし、モデルハウスでコーヒーを提供しているデザイナーの大野氏は、このプロジェクトの効果を語ってくれた。

下校時間帯に子どもたちの遊び場をつくり、先達から遊びを承継するような計画も進めているとのこと。地域の様々な年代の人々が集い交流することで、新しいコミュニケーションが生まれ、世代を超えたコミュニティが創生される。プロジェクトの狙いどおりに、地域を巻き込み始めている。

地元デザイナーの作品を展示しているギャラリー
展示会に集まる地域の人たち

◆今後の事業展開と課題

あくまでも初志のテーマを追求。
目指すのは地域の住みやすい暮らし。

「私も永年いろんな方の起業を見ていますが、コミュニティ作りで創業した例は他にありませんね。時代に合った新しい取組なのかもしれません。」コーディネーターの長友氏は、多田氏の創業をこう評価した。確かに、公共事業ならいざ知らず、個人で借金までしてコミュニティ作りを目指すとは頭が下がる思いだ。しかし多田氏はいたってまじめだ。きっと建築家としての才覚がそうさせるのだろう。

多田氏は今年、グッドデザイン賞に再挑戦する。あくまでも「建築と地域の暮らしの関係性」というテーマを追いかけるつもりだ。また、空き家のリノベーション事業にも取り組み、より住みやすい暮らしを生み出すことに尽力していきたいという。

モデルハウスで話をしていると、得も言われぬ安心感がある。そして時がゆったりと流れる感覚に包まれる。都会では人と人との距離は近いが心が通じ合っているわけではない。日向のような豊かな気候風土の中では、自然が人と人とを媒介することで、ある種の共感を呼び起こしコミュニティを育んでいくのかもしれない。そのメインステージがこのモデルハウスということか。地方の活性化は、こうしたコミュニティ創生の取組から始まるのかもしれない。

「大きな屋根とガレージのある家」から穏やかな日向灘を眺めながら、そんなことを考えた。

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