第2部 小規模事業者の挑戦 ―未来を拓く―

第3章 地域経済の活性化に資する事業活動の推進

本章では、地域経済の活性化に資する事業活動の推進の観点に立ち、「地域社会への貢献性に意義や価値観を見出している事例」、「地域ブランド化や地域ブランドを活用した事業に取り組んでいる事例」、「地域振興や賑わいの創出に取り組んでいる事例」の全11事例を紹介する。

第1節 地域社会への貢献性に意義や価値観を見出している事例

本節では、地域社会への貢献性に意義や価値観を見出している小規模事業者について下記の4事例を紹介する。

事例2-3-1 株式会社柚りっ子(徳島県徳島市)

 代表取締役 三澤 澄江 氏

〈食品加工販売業〉

事例2-3-2 株式会社サンクラッド(香川県高松市)

 代表取締役 馬場 加奈子 氏

〈学生服の買取り販売・開業支援事業〉

事例2-3-3 株式会社幸呼来Japan(岩手県盛岡市)

 代表取締役 石頭 悦 氏

〈裂き織り製品の製作・販売〉

事例2-3-4 株式会社エヌ・ツー・エンジニアリング(茨城県坂東市)

 代表取締役 並木 陽子 氏

〈電気機器などの組立・製造、物流業務の受託〉

事例2-3-1:株式会社 柚りっ子(徳島県徳島市)

(食品加工販売業)

〈従業員5名、資本金150万円〉

代表取締役 三澤澄江氏

「ユズ農家の、そしてお客さまの笑顔が見たい」
「国産、無農薬にこだわり突き進む」

◆事業の背景

お礼の代わりにユズみそをプレゼント。
好評のあまり購入希望者も続出。

会社を定年退職し、どんなセカンド・ライフを過ごすかは人それぞれ。退職金や年金でのんびり暮らす人もいれば、ほかの会社に再就職して現役を続ける人もいる。

徳島県徳島市、ユズを使った加工食品を製造する株式会社柚りっ子・代表取締役の三澤澄江氏は、37年間務めた「徳島県食糧卸協同組合」を平成7年に定年退職し、のんびりと趣味や旅行を楽しむつもりだったはずが、平成19年に同社を設立した。

「25年前に主人を亡くし、3人の子どもたちも独立していたので、自由気ままな生活を送っていました。ところが、あるボランディアにかかわったことで、起業することになってしまって……。」

三澤氏がかかわったボランティアとは、徳島に流れる吉野川の源泉を守ろうという『吉野川源水をはぐくむ会』。吉野川の上流に住む方たちは、下流で生活している人たちを意識して川をきれいに使っているという話を聞き、「何か力になりたい」という思いから、事務局で書記を務め始めた。

「募金活動を行うと、会の設立当初はすぐに集まったのですが、3年、4年と続けていくうちに、集まりが悪くなっていきました。私は少しでも多くのお金を贈りたいという気持ちが強かったので、お会いする方にいつも1口1,000円の募金をお願いしていたんです。でも、お願いばかりでは申し訳ないので、手作りのユズみそをプレゼントしていました。」

ユズの産地である徳島では、みそとユズをあわせた保存食『ユズみそ』を作る家庭が多く、三澤氏も昔からユズみそを作っては、知り合いに配っていた。本人にとっては“いつもの通り”、お礼をかねて手作りのユズみそを渡していたのだ。

「この活動のほかに、高齢者の方たちに元気になっていただきたくて、みんなで童謡を歌う『徳島ハーモニーネットワーク』という会も設立して活動していました。その会の関係者にも、軽いお礼の代わりにユズみそをお配りしていました。年間1,000個以上作っていたと思います。そんなことをしていたら、『もらってばかりでは悪いから、今度は買わせてほしい』、『おいしいかったから買わせて』という声が大きくなって。最初は“材料費の足しにでもなれば”と軽い気持ちで売り始めたのです。」

◆事業の転機

知り合いからの感謝の気持ちにやりがいを感じ、
ユズ農家を助けたい気持ちが背中を押す。

購入希望者だけに販売していたところ、「亡くなったおじいちゃんが、人生の最後をこのユズみそに支えてもらったと言っていました。ありがとうね」、「風邪をひいて食欲がないときも、これがあるとご飯を食べられる」という感謝の声が集まってきたという。そんなある日、果汁をしぼった後のユズの皮が大量のゴミとして破棄され、問題視されている新聞記事が目に止まった。

「ユズみそはユズの皮を使って作るので、それを安価で買い取ればゴミの削減になる」と事業化することを真剣に考え始めたという。ところが、果汁をしぼった後の皮はすぐに酸化してしまうため、材料として使えないことがわかった。そこで三澤氏はユズの産地を訪ねるのだが、そこで起業を決意させる出来事に遭遇した。

「何気ない気持ちでユズ山を歩いていると、農家のおじいさんに会ったんです。ユズを譲っていただけませんかと声をかけると『好きなだけ持っていっていね(「いね」は「帰れ」という方言)』。それでコンテナいっぱいにユズを採って、お金をお支払いしようとしたら、『金くれるんけ』と顔をくしゃくしゃにしながら喜んでくれました。ユズの価格が低く、収穫しても赤字だったので、この農家ではユズはお荷物だったようなんです。それなら、私が商品化してユズを買い取れば、もっと笑顔になれる人が増えるじゃないですか。」

経営の経験はなく、不安はあったが、「助けてあげたい」という気持ちが背中を押した。

◆事業の飛躍

素材は国産・無農薬・無添加。
こだわりぬいて華々しくデビュー。

一般的にユズみそは、ユズの皮しか使用しない。しかし三澤氏は、「実を捨てたらゴミになるし、もったいない。実からはユズ酢を作り、皮と一緒に混ぜてしまえばムダがない」という発想から、ユズをまるごと使用している。さらに素材自体へのこだわりも強い。

「商品化を始めたころ、中国などの食品問題が大きく報道されていました。家庭で作っていたときは市販のみそを使っていたのですが、どこで生産された材料を使い、どんな加工がされてきたのか、パッケージを見ても分からないことに不安を感じるようになりました。そこで、知人のつてで、おみそ屋さんをご紹介いただき、この商品のためにみそを作ってもらうことにしたんです。」

当然、ユズも無農薬。現在はユズみそ以外にもユズを使った多くの商品を生産・販売しているが、どれも無農薬、無添加。コストや手間がかかっても、それだけは守りたいという。

そもそもユズみそ自体は多くの企業が商品化し、徳島県内のお土産店などで売られている。そんな競争のなかに、愛情を注いだユズみそを送り出すからこそ、差別化のために商品名にもこだわり、「ゆずりあい」の意味を込め、『柚りっ子』と名付けたのだ。

自信を持って商品化された『柚りっ子』は、消費者が買いたい商品をクローズアップする『良品工房』の推薦を受けて、新宿伊勢丹(東京都)で販売された。実に華々しいデビューである。その後も、有名バイヤーの目に止まり、大阪の近鉄百貨店で販売されたり、俳優の永島敏行氏に気に入られて、彼が主催する青空市場に出店したりと販路は次第に開けていった。

無農薬の国産品素材を使った『柚りっ子』
加工工場で商品をパック中

◆今後の展開と課題

赤字続きでもひたすら努力。
たくさんの人の笑顔のために。

しかし、現実はなかなか厳しかった。お客さまからはもちろん、百貨店やスーパーのバイヤーからの評判も上々。情報誌に商品が紹介されるだけでなく、三澤氏の活動が新聞や雑誌で取材されることも多かった。さらに一昨年は、インドネシアで開催された『アジア太平洋経済協力会議』のセミナーに招待されてスピーチをし、昨年から今年にかけては全国で講演を行っている。それでも売れ行きは今一歩で、せっかく農家から仕入れた良質のユズが無駄になることもあったという。

「まだまだ知名度が足りません。でも、食べられた方を笑顔にできる商品ということには自信があります。1人でも多くの方に『柚りっ子』を知っていただき、1人でも多くの方を笑顔にしたいですね。」

今でも最初に出会った農家のおじいちゃんの笑顔が忘れられないという三澤氏。多く人の笑顔のために、自分を信じ、商品を信じ、今日もPRに努めている。

ユズみそ以外にも多数の商品を展開

事例2-3-2:株式会社サンクラッド(香川県高松市)

(学生服の買取り販売・開業支援事業)

〈従業員1名、資本金50万円〉

代表取締役 馬場加奈子氏

「“お母さんの悩み”から生まれた学生服リユース店」
「社会・地域・主婦を支援するFC展開も開始」

◆事業の背景

崩壊した“お下がりネットワーク”。
多くのお母さんが持つ悩みを実感。

「隣のお兄ちゃんが中学校を卒業するから、学生服をいただいたわよ。今着ているのが小さくなったけれど、買い替えなくてすんで助かったわ。」

近所の知り合いから学生服のお下がりを譲り受ける。そんな“お下がりネットワーク”はよく見られる光景だった。ところが「最近は働くお母さんが増えたせいか、お母さん同士のつながりが希薄になって、お下がりをお願いできる人がいないどころか、近所の人と話をする機会も減っているようです」と話すのは、香川県高松市で学生服の買取り販売を行っている馬場加奈子氏。平成23年1月に『学生服リユースShop さくらや』を開業、平成25年3月には経営母体として株式会社サンクラッドを設立し、子育て中の主婦でも経営できる『さくらや学生服開業支援』もスタートさせた。

そもそも馬場氏が起業したのは自身の体験からだった。3人の子どもを持つシングルマザーで、家計が厳しいときに限って、学生服を買い替えなければならないことがあったという。

「お下がりをもらう知り合いもいないし、リサイクルショップでも学生服は扱っていませんでした。その悩みを会社の同僚に話したところ、同じ悩みを持っている人が意外に多いことが分かりました。」

学生服のリユースショップがないなら作ってしまおうと、会社を辞め、貯蓄を切り崩しながら平成22年夏に自宅で細々と買取り販売を始めた。しかし会社の実態がなく、「学生服買い取ります」の案内を配っても怪しまれるだけ。まったく事業として成り立たなかった。

◆事業の転機

ポスティングとブログで注目をあび、
口コミの力でお母さんたちに広まる。

起業や経営の知識はなく、販売のノウハウもない。それでも、お母さんたちの信用を得るために、日本政策金融公庫からの融資300万円を資金に店舗を借り、『さくらや』を開業。開店前に5,000円の受講料で受けたブログ講習の知識を役立て、ブログに力を注ぎ、並行してチラシの配布もコツコツと続けた。

「1月の雪が降る日の夜、当時小学生だった次女と幼稚園の長男と一緒に、手作りのチラシをポスト投函していたのです。何度もくじけそうになりましたが、寒さのなかでがんばる子どもたちの姿を見て、“私がくじけてどうする”と気持ちを奮い立たせたことを覚えています。」

やがて卒入学シーズンを迎え、一人、二人とお客さまが訪ねて来るように。すると、口コミによるものか、利用者は一気に増えていく。また、マメに更新を続けていたブログがマスコミの目に留まり、新聞や雑誌にお店が取り上げられるようにもなった。

「最初の頃に来てくれたお母さんが、チラシを手に持ちながら、『こんなお店欲しかったのよ』と言ってくださって、本当にうれしかったのを今でも覚えています。」

オープン時、販売用の学生服の在庫数はたった50着、お客さまがいらしても売る商品がないときもあったという。しかしお母さんたちも、思い出の詰まった学生服の処分に困っていたようで、「単にゴミ袋に入れて捨てるのは忍びなかった。誰かがまた着てくれるならそのほうがいい」と、お店に持ち込む人が増えていった。学生服以外の取り扱いアイテムも増え、ワイシャツ、ポロシャツ、体育着、鞄ほか学校用品全般に広がり、今では約8,000着にまで商品点数は充実した。

幼稚園から高校まで学校着が並ぶ

◆事業の飛躍

地域の障がい者施設と高齢者を支援。
レジ前がお母さんたちの情報基地。

学生服のリユースを始めるにあたり、馬場氏は、それを着る子どもの気持ちを考えた。

「リサイクル品だからこそ気持ちよく着てほしい。ほつれは修繕し、洗濯やクリーニングもきちんとしています。」

クリーニングは、地元の大手クリーニングチェーン店にお願いし、安価での取引を成立させた。また、クリーニングに出すほどでもない商品の洗濯や修繕、名前の刺繍を取る作業は、障がい者施設や地元の高齢者にお願いをしている。

「長女が障がいを持っているのですが、彼女が通う施設では仕事が少なくて困っていたんです。そこで障がい者の就労支援もかねて、商品の洗濯をお願いすることにしました。また、『ネーム刺繍を取るのがたいへん』と、ある高齢のお客さまに話をしたら、『私がやってあげるわよ』と。ほかの方にも声をかけると、時間をもてあましているし、少しでもアルバイト料が入れば、孫に何か買ってあげられると喜んでくださいました。生きがい支援にもなりますから、高齢者の方に修繕や刺繍取りをお願いしています。」

地元の学校の学生服を取り扱っているのだから地域との関係は重要だ。しかしそれ以上に、社会貢献、地域貢献に結びつけることができてうれしい、と馬場氏はいう。

さらに、お母さんたちにとって、『さくらや』は“学校の情報”を得られる貴重な存在でもある。個人情報の問題からクラスの連絡網がない学校が増えているうえ、仕事を持っていて学校行事になかなか参加できないお母さんが多いため、“子どもが通っている学校の情報”を知る術が少ないという。

「A高校ではポロシャツはいいけど半袖のワイシャツはダメ、B高校では体操着のラインは2本など、学校ごとに決まりがありますが、子どもの学校の規定が分からないお母さんがたくさんいます。そんなときは学校名さえ分かれば、こちらからアドバイスもできます。また、C男子校では、日焼けするからと夏でも半袖のワイシャツを着る男子生徒は少ないなど、レアな情報もたくさんあって。そんな情報はなかなか入手できませんよね。」

レジの前は「うちの学校は〜」という会話が飛びかう、貴重なコミュニケーションの場所だ。学校の情報を収集するのは、スタッフにとってもなかなか困難な作業ではあるが、そこで集約された情報をお母さんたちへ発信し、働くお母さんをサポートしている。

高齢者の方にお願いして刺繍取り

◆今後の展開と課題

子育て中のお母さんのために、
開業支援を展開。

現在、『さくらや』は全国でフランチャイズチェーン店(開業支援する店舗)を募集している。これは、自分のように子育てをしながら働きたいと思っているお母さんを支援する気持ちから始めたという。

「私は起業するに当たり、子どもたちとの時間を第一に考えました。一緒にご飯を食べ、宿題をみてあげられる生活ができる仕事。たとえば、今の店舗は、子どもが学校から帰ってくる時間にあわせて営業時間を10時から15時にしていますし、土曜日はお店に子どもを連れてきます。それが可能な経営ノウハウを教えて、少しでも子育て中のお母さんのサポートができればと思います。」

平成24年には、香川県主催の『かがわビジネスモデル・チャレンジコンペ2012』に応募し、最優秀賞を受賞した。開業する店舗の負担を減らすために、その賞金300万円で入荷や出荷の管理システムを構築。万全の態勢を整えた。

「たいしたことはしていません。自分が困ったことや、やってほしいことをやっているだけ。」

お母さんの視線で事業を展開しているからこそ、お母さんたちの心をつかんでいるのだろう。

レジの前がお母さんのコミュニケーションの場所

事例2-3-3:株式会社 幸呼来(さっこら)Japan
(岩手県盛岡市)

(裂き織り製品の製作・販売)

〈従業員4名、資本金10万円〉

代表取締役 石頭 悦氏

「地元の伝統技術を通じて、
障がい者雇用と地域活性化に挑む」

◆事業の背景

障がい者の高度な裂き織技術に感動し、
事業化することを決意。

東北地方には、昔から伝わる『裂き織』という伝統技術がある。株式会社 幸呼来Japanは、裂き織を利用した現代的なテイストの製品を生み出す一方、障がい者雇用を積極的に行っている会社だ。

「伝統技術」と「障がい者雇用」。一見、無関係にみえるこの二つが結びついたのは、平成21年、代表取締役の石頭悦氏が岩手県内の高等支援学校を訪ねたときに遡る。当時、住宅リフォーム会社でバリアフリー工事を担当していた石頭氏は、中小企業家同友会の障がい者雇用をテーマにした施設見学に参加し、そこで初めて裂き織と出会った。

「縦糸に木綿糸を使い、横糸の代わりに1センチ幅に裂いた布を織り込んで作った生地を『裂き織』といいます。江戸時代には木綿などの布地が貴重だったので、傷んで使えなくなった布を裂き織にして再利用し、最後まで大事に使っていました。支援学校では、これをカリキュラムとして授業に取り入れ、集中力や忍耐力を鍛えているそうです。私が訪ねたときは夏休みだったので、生徒さんが織機に向かっている姿は見られませんでしたが、その作品を見て、本当に素晴らしいと感じました。」

一度その存在を知ると、道の駅や土産物店で裂き織の製品が目につくようになる。しかし、支援学校で見た作品のほうがずっと緻密でレベルが高かった。「あの技術を埋もれさせておくのは惜しい」と考えた石頭氏は、勤務先の社長に裂き織の事業化を提案。盛岡市の緊急雇用創出事業の補助金を得られたこともあり、オフィス2階のスペースで、障がい者2名を含む計4名の、裂き織加工・販売事業がスタートする。平成22年7月のことだった。

◆事業の転機

盛岡さんさ踊りの浴衣を利用して、
「さんさ裂き織」のブランド化に成功。

伝統技術の継承といっても、事業である以上、売れる商品を作らなければならない。注文した織機が到着し、生産体制が整う一方、製品ブランド化のための奮闘が始まった。

「裂き織の製品はすでにいろいろなところで売られていたので、差別化する必要がありました。補助金は翌年の3月で切れてしまうので、それまでには軌道に乗せたい。そこで思いついたのが、盛岡さんさ踊りの浴衣を材料に使うというアイデアです。さんさ踊りは、さまざまな企業の社員がカラフルな浴衣で参加するのですが、浴衣が古くなってもロゴ入りで思い入れもあり、簡単に捨てられないらしいのです。」

当初は盛岡市内の企業を一軒一軒、訪ねて依頼を続けたが、裂き織事業の認知度が低いせいか、けんもほろろに断られたという。それでも石頭さんは諦めず、商工会議所内にある盛岡さんさ踊り実行委員会にかけ合った。実行委員会の呼びかけで浴衣は集まり、『さんさ裂き織』として、ブランド化に成功する。

「とにかく行動しないと何も始まりませんよね。その後も、南部鉄器のメーカーさんとの出会いがあり、さんさ裂き織と南部鉄器を組み合わせたインテリア照明『南部の灯火(あかり)』を商品化することができました。」

盛岡さんさ踊りの浴衣を織った『さんさ裂き織』

◆事業の飛躍

東日本大震災をきっかけに法人化し、
障がい者福祉施設として再スタート。

周囲の人たちとの出会いや協力のおかげで順調だった裂き織事業だが、その勢いにストップをかけたのが東日本大震災だった。勤務先の住宅リフォーム会社も業績が落ち、裂き織事業をそのままの形で維持していくのが難しくなってしまう。

「でも、『ここでやめちゃいけない』ということは、はっきりしていました。障がい者雇用も厳しくなる一方だと予想できましたし、今やめてしまってはこれまでやってきたことが無駄になると思ったからです。そこで思いきって、株式会社 幸呼来Japanとして法人化することにしました。」

それが、震災から半年後の同年9月のこと。会社名『幸呼来』は、盛岡さんさ踊りの「サッコラ〜チョイワヤッセ」というかけ声からネーミングした。

独り立ちするからには障がい者雇用の受け皿として、しっかりとした体制を整えなければならないと考えた石頭氏は、平成24年4月に指定障害福祉サービス事業者就労継続支援A型の認可を得た。指定障害福祉サービス事業者就労継続支援A型とは、「通常の事業所に雇用されることは困難であるが、雇用契約に基づく就労が可能である者に対し、就労に必要な知識及び能力の向上のために必要な支援を行う事業所」のこと。専門家としてサービス管理責任者の有資格者を置かなければならないが、偶然の出会いから幸呼来Japanに適任者が参加してくれることになり、障がい者福祉施設としてスタートすることができた。就労継続支援事業には、雇用契約を結ぶA型のほか、雇用契約を結ばないB型の2種類があるが、受け皿を広く設けたいという思いから、平成26年5月に同社は就労継続支援B型の認可も得た。現在はA型9人、B型3人、スタッフ5人(うちサービス管理責任者1人)で運営している。

◆今後の事業展開と課題

新事業で、ビジネスと福祉を
両立させることの難しさに取り組む。

幸呼来Japanの理念は、「障がい者の安定的な雇用を創出し、地域活性化につなげる」こと。そのためには売上の確保が重要な課題である。そこで新たなブランド事業としてスタートさせたのが『Panoreche(パノレーチェ)』である。イタリア語の「panno(布)」と「orecchio(耳)」を組み合わせた「布の耳」という意味の造語がブランド名だ。新ブランドの特徴は、アパレルメーカーから不要になった生地(残反)を提供してもらい、染色や配色の工夫などの一手間を加えることで、裂き織のファブリックとしての可能性を広げたこと。織り上げた生地は堅牢性が強く、使い込むにつれて独特の風合いが増す。従来の裂き織とはひと味違うテクスチャーは、テーブルクロスやクッションカバー、ランプシェードなど、ファッション性の高いアイテムへの展開も進んでいる。

新事業を支えているのは、東北各地の障がい者福祉作業所と結んだネットワークで、これにより安定した生産体制が整った。雇用を促進すると同時に、品質を落とさずに量産していくことを可能にしたこの取り組みは、「『新しい東北』復興ビジネスコンテスト2014」で奨励賞を受賞した。

「ビジネスと福祉を両立させるのは、実はとても難しいことです。安定して働ける職場を提供するには、厳しいビジネスの世界で通用する事業を行っていかなければならないからです。そのためには、安定した品質と生産性を確保し、納期を守るシステム作りをする必要がありますが、そればかりを追求するわけにもいきません。そのジレンマにはいつも悩んでいます。『Panoreche(パノレーチェ)』は今のところ、それを解消するための最良の手段だと思っていますが、これからも試行錯誤しながら、障がい者も健常者も安心して働ける環境作りに励んでいきたいと思います。」

『Panoreche』ブランドのクッションカバー
幸呼来Japanの1 階の作業場

事例2-3-4:株式会社エヌ・ツー・エンジニアリング
(茨城県坂東市)

(電気機器などの組立・製造、物流業務の受託)

〈従業員11名、資本金300万円〉

代表取締役 並木暘子氏

「家族のような仲間とともに62歳で起業を決意した
“お母さん社長”の奮闘劇」

◆起業の背景

やらない後悔はしたくない。
そんなポジティブ発想が起業を決断させた。

近年、就業の意向を持つ高齢者が増えているという。厚生労働省の『中高年者縦断調査』(平成22年)によると、就業中の60歳から65歳の人のうち、56.7%もの人が「65歳以降も仕事をしたい」意向を示しており、これは「仕事をしたくない」(16.6%)を大きく上まわっている。

一方ではその思いに反し、就労し続ける厳しさがあるのも確か。「引退後は趣味のハワイアンミュージックに浸りながら、のんびり過ごしたい」という夢を捨て、平成22年、62歳で起業した、株式会社エヌ・ツー・エンジニアリングの代表取締役である並木暘子氏も、その現実を知る一人である。

「前職は、派遣会社の総務部長をしていました。取引先は多方面にわたっていたのですが、そのなかに、精密機械の組み立て作業に人材を派遣するセクションがありました。リーマンショック後、大幅な人員削減を余儀なくされ、多くの派遣スタッフに契約終了を告げたのです。なかにはお子さんが生まれたばかりの人や、家を建て大きな住宅ローンを抱えた方もいて、一人ひとりの生活を思うとやり切れない思いでいっぱいになりました。」

そんな辛い思いをした並木氏が退職して半年が経ったころ、当時の派遣取引先から、「精密機械の組み立て会社を立ち上げて、業務を請け負ってくれないか」という申し出があった。

「そのときは、本当に悩みました。年齢を考えたら、知力も体力も不安でしたし、“果たして自分にできるのか”という思いが大半を占めていました。それに、経営者となると従業員たちの生活に責任を負わなければなりません。そんな大役が務まるのか自信がありませんでした。」

不安を感じていた並木氏の背中を押したのが、一つの信条だった。

「悩んでいたとき、辞めていった仲間たちの顔が思い浮かびました。なかには、“まだ次の仕事が見つからない”という人もおり、“それならば、もう一度みんなと汗をかこう”と思ったんです。最後は自分のなかで常々思っていた、“やらない後悔はしたくない”という言葉が、私の背中を押しました。」

彼女の思いに賛同した“仲間”10人が集まり、同社はスタート。主な業務は半導体製造装置(ステッパー)の組み立て。同社で扱う部品は、完成すると数億円にもなる機械の重要部分にあり、もちろん組み立てには専門的な技術が求められる。

◆事業のスタート

起業して1年後に東北大震災で被災。
3年目からは半導体の発注も減り始める。

半導体製造装置の組み立て作業では塵埃を一切排除しなければならない。会社設立にはまず、工業用クリーンルームを設置することが必要だった。また、最初の3か月間、スタッフは半導体製造装置の組み立てに関する技術研修を受けなければならないため、実質的な収入のないその間の給料は並木さんが保障することになる。準備した自己資金800万円と、日本政策金融公庫から融資を受けた500万円は、その費用にほとんどが費やされた。

やっとの思いで創業した翌年には東日本大震災が発生。設置したばかりのクリーンルームが損傷を受けるという打撃を被った。幸いこの損害に対しては、平成24年に1,500万円の東北大震災復興特別貸付を受けることができ、新工場への移転と新たなクリーンルームの設置費用に補てんされた。売上高も初年度こそ1,500万円だったが、翌年には3倍以上に急成長を見せた。ところが、3年目には再び、半導体製造の受注数が減り始める。

「半導体の発注元は国内外に及びますが、半導体事業そのものは日本の景気動向とはあまりリンクせず、先行きが非常に読みにくいのです。残業をしても追いつかないほど仕事に追われることもあれば、開店休業のような状態に陥ることもありました。私にとって会社は家族のようなもので、私はこの大所帯の母親だと思っています。顔色が悪い社員がいれば“何かあったの?”と声をかけるし、私生活での悩み事を相談してくれる社員もいます。縁あってともに仕事をする機会を持った仲間たちを、仕事がないからと切り捨てるようなことは、もう二度としたくありません。“景気のいいときは人を増やし、悪いときはクビを切る”は誰にでもできます。そうではなく、私はどんな状況でも“家族”を守りたいと思いました。」

クリーンルーム内部

◆事業の成功の転機

一つの業態に固執しない姿勢が、
会社を好転へと導いた。

並木氏は落ち込んだ業績を何とかしようと、なりふり構わず営業に走りまわった。昔のつてや小さな糸口を探りながら、方々に声をかけ続ける。それが実を結び、パチンコ台やATMに使用する部品の製作を請け負うことができた。さらに製造業とは別に、平成25年からは物流倉庫内のフォークリフト作業までも請け負うようになった。それでも、少なくなった半導体事業の穴埋めにまでは至らなかったが、「暇になったからクビを切る」という事態は回避できた。

「弊社の強みは、どんな仕事でも引き受けること。一般的に派遣会社に仕事を依頼すると、『昨日の今日では急すぎて人をまわすのはムリです』とか、『短い期間の仕事は受けられません』などと言う会社がほとんどです。でも、私たちの会社はどんな小さな仕事でも、儲けが少なくても引き受けます。それが次の仕事につながる。そして私は、社員の技術を信用しています。彼らの仕事ぶりを見てくれれば、必ずまた依頼が来ると信じています。」

一つの業態に固執しない。また、どんなオーダーにもできる限り応じる。そんな柔軟で謙虚な姿勢が、危機を乗り越え、会社を次なる段階へと進めていったのである。

◆高齢者起業の秘訣

起業の成功は、1人でやろうと思わないこと。
若い人から学ぶこともたくさんある。

最後に、起業を目指す中高年のために、創業の極意をうかがった。

「企業は人なり、というじゃないですか。とにかく、“自分1人でやろう”と思わず、“仲間と一緒にやろう”と思うことが大切だと思います。“学ぶ”という言葉は、“真似る”が始まりだともいわれています。赤ちゃんだって、人の真似をしながら言葉を覚えていきますよね。それと同じで、人と接していないと、人はダメになってしまいます。自分1人でできることなんてたかが知れていますから。高齢者の知恵と若い人のエネルギーが合わせられれば、何かできると思います。そうやって必死になって仕事して、それでもダメなときは謝ればいいんです。一生懸命やったのなら、謝れば許してもらえるものです。」

人とのつながりを重視し、まわりの人を大切にしてきた並木氏。現在は、ご主人とともにハワイアンバンドを組み、ボランディアで介護施設の慰問に出かけることも増えてきた。また、知り合いのカーテンメーカーから出る切れ端を再利用し、エコバッグなどを作り、フリーマーケットでの販売も始めた。多忙ななか、プライベートも充実した日々を過ごしている。

専用の保護衣の着用が必須
社員11 名の“ 家族”で共同作業
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