第2部 小規模事業者の挑戦 ―未来を拓く―

第3節 信頼関係に根ざした地域需要の掘り起こしに取り組んでいる事例

本節では、日頃の取引先などとの信頼関係や顧客の声に根ざした、地域需要の掘り起こしに取り組んでいる小規模事業者について下記の4事例を紹介する。

事例2-1-8 山ト食品株式会社(静岡県伊豆の国市)

 代表取締役 永沼 純子 氏

〈菓子製造卸業、惣菜仕出し製造業〉

事例2-1-9 共栄塗装店(岡山県倉敷市)

 代表 橋本 豪紀 氏

〈建築塗装業〉

事例2-1-10 有限会社クレスコ(徳島県阿南市)

 代表取締役 森 智子 氏

〈建築用木製品製造業〉

事例2-1-11 株式会社トリプルライク(大分県速見郡日出町)

 オーナーシェフ 三好 晋輔 氏

〈飲食業及び通信販売業〉

事例2-1-8:山ト食品 株式会社(静岡県伊豆の国市)

(菓子製造卸業、惣菜仕出し製造業)

〈従業員2名、資本金1,000万円〉

代表取締役 永沼純子氏

「我が子に食べさせたいおやつを作る」
「ぶれない理念が周囲を動かし、チャンスを生み出す」

◆事業の背景

忙しさのなか、我が子への思いから生まれた
昔ながらの家庭のおやつ『牛乳寒天』。

事業が拡大するとき、リーダーが率先して、どんどん周囲を巻き込んでいくこともあれば、逆に周囲の要望に応えていくことで自然と仕事が育っていくこともある。静岡県伊豆の国市の住宅街に菓子と惣菜の製造工場を構える山ト食品 株式会社は、まさに後者の典型だ。同社は昭和27年、現社長・永沼純子氏の父によって豆腐製造業として創業。当初は行商で販売を行っていたが、昭和50年には大手スーパーとの取引も始まった。その10年後には惣菜販売に事業拡大することとなり、つくり手として白羽の矢が立てられたのが3人のお子さんを育てる専業主婦の永沼純子氏だ。

「最初はおからとひじき、切り干し大根の煮物の3種のみで、1日2時間も働けばよかったので、こんな楽な仕事はないと二つ返事で引き受けました。」

ところが、手作りの味が評判を呼び、1年もたたずに1人ではまかないきれなくなってしまった。従業員を増やし、新メニューの開発に取り組むうち、冠婚葬祭用の仕出しにまで手を広げることに。地元の葬儀の仕出しはすべて頼まれるようになり、早朝から深夜までフル稼働状態になっていく。

そんな忙しい日々のなかでも、“これだけは”と純子氏が守ったのは「自身の子どもに与えるおやつは手作りのものを」という信念だった。なかでも子どもたちに人気だったのが『牛乳寒天』。遊びに来る子どもたちにも与えているうちに評判を呼び、「ぜひ、商品化してほしい」という声が高まってきた。

その声に応えて商品化を決意。基本的な方針は“我が子のため”のおやつなので「手作り・安心・安全」を念頭に材料にこだわり、静岡県東部の函南町丹那盆地で搾られた新鮮な牛乳と良質な寒天に限定。添加物を使わずに、最初から最後まで手作りの商品を完成させた。しかし、当初は1日20個を細々と製造するのみ。まさかこの商品が同社の主力商品になるとは考えてもいなかった。

好評を博した『牛乳寒天』

◆事業の転機

逆境の中にこそ勝機がある。
周囲の後押しで主力商品として成長。

現在、同社の売上は『牛乳寒天』関連商品が7割で、残りの3割がお弁当や惣菜だ。『牛乳寒天』は4?8月のオンシーズンには、多い時で1日4,000個を製造し、販売エリアは埼玉から九州までをカバーする。しかし、ここまでの道のりは順風満帆とはいえなかった。

「地元に葬儀場ができたせいで、葬儀の仕出しが激減して困っていると、病院やスーパーから弁当の引き合いがあり、息を吹き返しました。すると今度は従業員から『もっと長く働けて収入が得られる職場に転職したい』という声が。弁当の製造は午前中で終わってしまいますからね。」

それならば、午後もできる仕事をつくろうと、人気が出始めていた『牛乳寒天』の量産を決め、近所の商店に卸し始めた。すると、これが大手スーパーの社長の目に留まり、「これはおいしいから売れるよ」と取引を持ちかけてくれた。その上、担当になった女性が「この商品を育てる!」と本気で惚れ込み、良い売り場を確保するなど尽力してくれた結果、当初1日50個だった取引が、翌週には100個、その翌週には200個と取引量は急激に伸びていく。

しかし、出荷量が増えることで問題も生まれた。『牛乳寒天』は添加物を一切加えていないため、お店の環境によっては消費期限間近になると、稀に小さなカビが生えることがあったのだ。通常、こういったトラブルが数回続くと取引は打ち切りになるが、スーパーの担当者は「育てる」の言葉どおり、ともに対策を検討。夏場の消費期限の見直しや、食品衛生の専門家を紹介したりと骨を折ってくれた。

「そこまで親身になっていただいたら頑張るしかありません。添加物を使わなくても日持ちするように改良を加え、なんとかトラブルを切り抜けました。きっと私があまりにもビジネスに無知なので、放っておけなかったんだと思いますよ。彼女がいなければ、この商品はなくなっていたでしょうね。」

◆事業の飛躍

『ニッポン全国物産展』出展で販路を拡大。
お客さまの声に忠実に、喜ばれる商品を開発する。

次に大きな転機が訪れたのは平成14年。商工会から勧められた『ニッポン全国物産展』への出展だ。東京・池袋の会場で『牛乳寒天』は驚くほど人気を集め、多くの商談も成立した。何よりの成果は初めて売り場に立った従業員が、自分たちが作った商品の人気を実感し、「もっとどんどん売っていこう!」という気運が生まれたことだ。翌15年に永沼氏は社長に就任。商工会の『中小企業経営革新』にエントリーし、新商品開発を進めたり、商工会の専門家派遣を利用して、経営理念づくりや業務の効率化、売上管理の仕方などを従業員とともに学び始めた。従業員の意識も向上し、率先垂範して作業効率や問題点の改善に取り組むようになってくる。

さらに成長は続く。18年ごろから寒天スイーツのブームが到来したことで、商品バリエーションも増え、注文は増える一方。「機械化して大量に売ってはどうか」という誘いも舞い込みだした。しかし、借り入れをしてまで工場を大きくする不安や、「機械では、自社の味わいは作り出せない」という信念から社長はすべて断った。

しばらくブームは続くが、そんななか、安価な寒天を供給するメーカーが急増。同社は売上を次第に落としていく。会社を存続できるかどうかの瀬戸際まで追い詰められたものの、「帰郷すると真っ先に食べる」「体調が悪くてもこれだけは食べられる」というお客さまや、固定給制から時間給制への転換を申し出てくれた従業員のために、簡単に引き下がるわけにはいかなかった。

「ブームの時は、会社のブランド力を上げなきゃいけないと言われ、そればっかり考えていました。でも大事なのは“商品”のブランド力をあげる努力だった。」

美味しくて、体にいい家庭の味を守ること。お客さまに喜ばれる新しい商品を提供すること。ひたすら味を追求し、商品開発にチャレンジし続ける同社の姿勢に、商工会から『スーパーマーケットトレードショー』などへの誘いがかかり、新たな販路が生まれ、業績は徐々に回復していった。

熟練スタッフが商品を育てる

◆今後の授業展開と課題

地域を生かし、自らも育つ。
地元の食材を使った商品開発を目指す。

現在は地域活性化への取組も積極的に行っている。町おこし事業として、地元の丹那牛乳と駿河湾海洋深層水塩を使用した『牛乳寒天 塩みるく飴』を開発。さらに、地元でブルーベリーを栽培する農家と協力し、『ブルーベリー飴』の発売にもこぎつけた。これらの商品は、牛乳寒天とともに伊豆半島ジオパークのロゴ使用認定されている。また、高校の被食物部の生徒たちが考案し、浜松市長賞を受賞した、地元のニューサマーオレンジを使ったレアチーズケーキの商品化をサポート。『オレんち伊豆けーき』と名づけられたチーズケーキは『第3回高校生F級グルメ甲子園』に出品された。売上は、部の活動資金になるような仕組みも整えている。ほかにも「この素材で何か作れない?」という要望をもとに商品開発することが増えてきたという。

「貢献といえるほどのことはできなくても、地元を活性化するために何かをしたい。それでファンが広がれば従業員もうれしい。会社は小さくてもそんな喜びを発信していきたいですね。」

周囲の期待や要望に応えるように商品を開発することで、自然と手助けしてくれる人が集まり、成長し、やがて周囲に還元できるように育っていく。事業拡大を目指すこととは違った、小規模事業の経営のモデルケースがここにはある。

『オレんち伊豆けーき』

事例2-1-9:共栄塗装店(岡山県倉敷市)

(建築塗装業)

〈従業員2名〉

代表 橋本豪紀氏

「丁寧な仕事が明日につながる」
「父に学んだ理念のもと、顧客の信頼を獲得」

◆事業の背景

父に弟子入りして、技術だけでなく、
仕事の理念を心に刻む。

岡山県倉敷市で親子二代にわたって塗装業を営む共栄塗装店。平成21年から代表をつとめる息子の橋本豪紀氏は、一本気な職人肌の父のポリシーを愚直なまでに守り続けている。そのポリシーとは、「丁寧な仕事が明日につながる」ということだ。

「私が父に『一から仕事を教えて欲しい』と頼み込んで、承諾してもらったのはサラリーマンとして3年間働いた後のことでした。最初の1年間は刷毛やローラーを持たせてもらえず、みっちり仕込まれたのは、下処理の工程です。」

下処理とは、塗装面のサビを落とし、ヒビを埋める作業のこと。「塗ってしまえば見えなくなるからと手を抜いてはいけない、下処理を丁寧にやるかどうかで3、4年は持ちが違う」と言われたものの、当時は「そんなものか」と思うだけだった。

「ただ、自分で塗りをやってみると、その意味がよくわかります。少しでもサビが残っていると塗料がうまく乗らず落ちてしまう。ヒビがある場合は、外から水分が浸透して、建材そのものの痛みにつながります。塗装は、単に屋根や外壁をきれいにするだけでなく、建材を補強し、家を長持ちさせるためのものでもあるのです。丁寧な仕事をすれば、それが信用につながり、次の塗装時期に、必ずまた声をかけてくれるということなんですね。」

橋本氏の父・文明氏が倉敷市で塗装業を始めたのは昭和51年だが、その頃からの顧客が今も塗装を頼みにくることもあるという。

「もう一つ、父は『頭を下げるのはお客さまだけ』という言葉も父はよく口にしていました。これは、ハウスメーカーや工務店の下請けにならず、元請けとしてお客さまの要望をすべて聞いた上で見積もりを出し、最後まで責任をもって仕事をやりとげることを意味しています。実際、話を聞いてみると、お客さまの要望にはさまざまなものがあり、一律のセット料金で仕事を受けるのは難しいことがよくわかります。」

丁寧な仕事が明日につながる

◆事業の転機

飛び込み営業に限界を感じ、
インターネットでのPRに取り組む。

文明氏は息子を厳しく叱るようなことはなく、わからないことを聞けば丁寧に教えたが、褒め言葉をかけるようなこともなかったという。

「覚えているのは、一度だけ。修業を始めて3年ほどたった頃、現場の帰り道で『今日の腕の振りはよかったな』と言われたことがありました。塗装は平面だけではなく、突起物や段差がある面もムラなく塗らなければなりませんが、刷毛でもローラーでも吹き付けでも、腕の角度と振り方にコツがあるのです。その日を境に、少しずつ大きな現場をまかせてもらえるようになりました。」

仕事を始めて10年が過ぎたころ、これまでの仕事の仕方を見直す出来事が起こった。50代後半の父・文明氏が脳梗塞で倒れたのだ。幸いなことに重症には至らず、後遺症もほとんどなかったが、息子としては現場に出ることはできるだけ控えて欲しかった。

「父のお客さまに頼ることなく、新規の仕事を獲得しようと営業に力を入れ始めたのは、その頃からです。ところが飛び込みで営業では、なかなか成果が上がりませんでした。塗り替えどきの家を訪ねては声をかけますが、悪徳業者に間違われて断られたときは空しかったですね。数十軒まわって、1軒も成果のない日もありました。」

真面目に丁寧な仕事をしているのに、それが伝わらないもどかしさに頭を悩ませていた頃、つくぼ商工会(当時は庄商工会)青年部に所属していたこともあり、青年部の先輩が相談にのってくれた。

「そこで勧められたのが、インターネットでのPRです。商工会では若手後継者等育成事業の取り組みとして『吉備きびスクエア』というポータルサイトを成功させた実績もあり、早速、専門の指導員さんにホームページの作り方を教わることにしました。パソコンは持っていたけど、インターネットにはつないでおらず、ブロバイダーとの契約や接続方法から教えてもらうような状態でしたね。」

◆事業の飛躍

最初は反響ゼロ。だが、記事の蓄積によって
飛躍的に成果が出るように。

悪戦苦闘の末に、どうにか自分の手でホームページを立ち上げたのは、平成19年の夏のこと。父の「丁寧な仕事が明日につながる」というポリシーを自分の言葉で表現したことはもちろん、ホームページと同時期に立ち上げたブログにはその日、どんな仕事をしたかを細かく書き、読んだ人に自分の仕事に対する姿勢が分かるようにと心掛けた。

最初の反響は、思ったほどではなかった。見積もりを依頼された案件が1件あったものの、成約には至らなかった。ところが翌年から、少しずつ成果が見え始め、さらに次の年にはインターネット経由で成約に至った仕事の売上が2,000万円に達した。

「成果が出るようになったのは、記事が蓄積されたことで私のメッセージが、より具体的に伝わるようになったからかもしれません。実際、インターネットから問い合わせをいただいたお客さまは、会社の理念や仕事の仕方をあらかじめ理解してくださっているので、打ち合わせも非常にスムーズですね。父はアナログ人間ですから、仕事から帰ってくると真っ先にパソコンに向かう私を見て、遊んでいるものと勘違いしていたようですが、私とお客さまのやりとりを見て、私が父の理念をちゃんと受け継いでいて、それがお客さまにも伝わっていることを認めてくれたようです。その年の暮れ、孫の顔を見せにあいさつにいくと『ヒデ、来年から(社長を)やってくれるか』と言われました。父の健康状態を心配していただけに、そう言ってくれたときは寂しさを感じる反面、ほっとしました。」

共栄塗装店のホームページ

◆今後の課題と事業展開

地域限定チラシで、地元の新規顧客の獲得に成功。

平成25年には小規模事業者持続化補助金を受けてチラシを作成し、車で30分圏内の地域に限定してポスティングを行い、地元の新規顧客を獲得することに成功した。最近は先代がそうであったように、リピーター顧客も増え、年間の仕事も安定してきた。

「現在、私ひとりが社長兼技術者ですので、仕事をまかせることのできるスタッフを育成することが今後の課題です。私と同様、父がこだわってきた理念をキチンと理解し、そのための技術を身につけてもらわねばなりませんので、容易なことではないかもしれませんが、私が40代のうちに人材も育て、できるだけ事業を広げていきたいと思っています。」

ボランティア塗装を行う『塗魂ペインターズ』

事例2-1-10:有限会社クレスコ(徳島県阿南市)

(建築用木製品製造業)

〈従業員14名、資本金300万円〉

代表取締役 森 知子氏

「不燃材料・ダイライトの加工もクリア」
「クライアントの無理難題にも常に対応」

◆事業の背景

森林問題に一役。
徳島産・国産材を積極的に使用。

我が国は豊かな森林資源に恵まれ、それらは木材などの林産物を生むだけでなく、自然環境を維持し、災害からも私たちの生活を守っている。しかし、林野庁の『木材需給表』によれば、日本の木材の供給量は、約7割を外国産材が占め、国産材は3割程度。林業の衰退、森林所有者の高齢化などにより、森林の荒廃が進み、大きな問題となっている。国・自治体は対策としてさまざまな施策を打ち出しており、都道府県ごとに実施された『森林整備加速化・林業再生事業』もその一つである。

徳島県阿南市で木材製品を製造する有限会社クレスコも、「森林整備加速化・林業再生事業」を利用して新しい機械を導入。同時に、これまで使用してきた外国産材の使用を抑え、徳島県産の木材を使ったMDF(木材の破片を粉末状にして固めたもの)を徳島県小松島市にあるエヌ・アンド・イー株式会社から仕入れ始めた。

「きっかけは、それまで使用していた外国産のラワン材が入手しにくくなったからです。手に入れることも可能ですが、価格が高騰しているうえ、どこの国の木材なのか素性がわかりません。徳島の林業に間接的にでも協力できたらという思いもあり、MDFを使うことに決めました。」

こう話すのは、代表取締役の森知子氏。同社の創業者でもある。

◆事業の転機

どん底からの復活。
周囲からのサポートにより起業。

森氏が起業したのは平成16年、46歳のときだった。父親は地元の名士で、従業員約200人を抱える木材製品の製造会社を経営、彼女も建築関係の大学を卒業し、起業するまでは父親の会社で営業担当として働いていた。ところが……。

「平成15年に父の会社が倒産してしまいました。それが原因で離婚をするなど、それまでの生活が一変しました。でも、私には子どもが2人いましたし、働かなければいけません。どんな職業に就くか考えたとき、やはりそれまで蓄積されてきた知識やノウハウを生かしたいと思いました。」

起業するに当たって、業界の厳しさ、経営の厳しさを知る父親は猛反対したという。父の反対を押し切って準備を始めたものの、倒産した会社の経営者一族だけに、金融関係からの融資は皆無。自己資金を当てるしかなかった。

「資金が少ないので揃えられる機械は限られていました。その機械で何ができるかを考え、建具枠や内装具材、ドアの一部など、建築用の木製材料の製造を主業務にすることにしたのです。その際、知り合いにお願いをして中古の機械を購入しましたが、中古でも全額を支払うことはできず、分割にしていただきました。そして父の会社で働いていた元社員に声をかけ、私を含めて5人で会社をスタートしました。」

もちろん風当たりは強く、「あなたの父親には迷惑をかけられた」と、厳しい視線も向けられた。しかし森氏自身は多くの信頼を得ていたのだろう。営業担当時代に付き合いのあった人たちは、彼女に好意的。苦戦する姿を見かねて、アドバイスやサポートをしてくれる人も少なくなかった。

「ありがたいことに、建物は父が使っていた工場をそのままお借りすることができました。また、本来、資材は自社で仕入れなければなりませんが、以前の取引先が仕事を発注してくださった際、弊社の状況を汲んで、資材まで用意してくださいました。本当にありがたかったですね。」

多くの方からのサポートのおかげで、彼女はいいスタートを切ることができた。

同社で製造している製品の一部

◆事業の飛躍

お客さまからの注文は何でもこなす。
不燃材料・ダイライトへの挑戦。

木製の建具枠や窓枠、内装枠は、カットした素材を、場合によっては曲げたり、貼りあわせたり、複雑な加工が必要になる。何を作るかによって工法が異なるうえ、資材によって工具の刃を替える必要があるなど、なかなか奥が深い。

「枠を専門に製造する業者が少ないこともあってか、いろいろな注文があります。なかには図面を見た瞬間に『無理でしょう』と思うようなこともありますが、諦めないで、蓄積してきた知識から工法のアイデアをひねり出します。また、コンマ何ミリの寸法の狂いも許されないケースなど、社員の高い技術力に救われたことも少なくありません。でも無理難題をクリアできたときの達成感は、何ともいえない喜びです。」

納期や単価、仕上がりなど、クライアントの厳しい条件にも対応してきたことで、同社は信用を積み重ねていった。「クレスコさんならどうにかしてくれるでしょう」と、新しい素材について相談を持ちかけられるケースも増えてきているという。その一つが、不燃・準不燃素材、ダイライトだった。

「4〜5年ぐらい前だったでしょうか、『こういうのを加工できますか?』と渡されたのがダイライトでした。ダイライトというのは、火山灰を固めた素材で、硬くて加工が難しいものです。既存の機械で加工が可能なのかも分かりませんでしたし、お客さまの要求レベルも高く、そのときは、さすがに二の足を踏みました。社員たちと相談をし、好奇心というか、チャレンジ精神というか、“できるかどうか分からないけど、やってみようか”というのが、ダイライトを扱うきっかけでした。」

結果的には、刃を替え、V字工法という高度な工法を用いて加工することができた。しかし、不燃材料は法律が厳しく、加工方法や用途によって建物への使用が認められないケースも多い。不燃材料を扱う認定工場に指定されれば規制は緩和されるが、認可を取るのが大変だという。条件が厳しいながらも、最近は高齢者施設の案件などで、ダイライトでの注文は増え始めているという。

◆今後の展開と課題

課題は将来的な職人不足。
リスクを負うも人材育成に力をいれる。

「私たちの仕事は、建築物の一部分の、またその一部。脇役の脇役です。でも脇がしっかりしていないと主役は輝きません。だからこそ仕事には誇りを持っています。」

ときには主役のように輝くこともある。数年前、ある宗教法人の施設に製品を納めた案件では、後日、送られてきたパンフレットに、同社で作った装飾品がずらっと並ぶ壮大な写真が載っていたという。完成品を見る機会は少ないので、そのときは本当にうれしかったという。

5年前に一度、景気の影響を受けて売り上げが落ちたことがあったが、それ以外は順調に業績を伸ばしている同社。今後の課題について聞いてみると、どの企業も抱えている問題だった。

「機械はコンピューターで管理していますが、最後の微妙な調整は、やはり技術者の手に頼るしかありません。ところが、次の世代の技術者が育っていません。ですから、将来を考え、技術者の育成を行っています。工場は、いちばん若い子が21歳。平均年齢30代前半です。日々の作業のなかで担当を変え、さまざまな経験をつませています。納期に間に合わない危険や、失敗の怖れもあるのですが、リスクを怖れて1人の社員に同じことばかりやらせていたら、人材は育ちません。経験をつんで、初めて道を極められると思っています。」

一度はどん底を味わった森氏。これからもチャレンジ精神を忘れずに突き進んでいくに違いない。

手慣れた感じで作業をする社員
寸法を測りながら狂いなくカット

事例2-1-11:株式会社トリプルライク
(カリー&オムライス MIND’S)
(大分県速見郡日出町)

(飲食業及び通信販売業)

〈従業員1名、資本金300万円〉

オーナーシェフ 三好晋輔氏

「倒産を覚悟してから起死回生の一発」
「テレビ番組への出演で大ブレイク」

◆事業の背景

離婚した妻の一言で開業を決意。
小学生の“美味しい”の一言で味に自信が。

大分県別府市の隣、日出(ひじ)町という人口約2万8,000人の小さな町に、全国から通販の注文が集まり、店内もにぎわう飲食店がある。白ワインベースのソースで食べるハンバーグが人気の店『カリー&オムライス MIND’S』(株式会社トリプルライク)だ。繁盛店になるまでには紆余曲折があり、一時は倒産寸前だったが、起死回生の逆転劇を見事に決め、現在に至っている。

オーナーシェフの三好晋輔氏が同店をオープンしたのは平成14年4月のこと。実は彼、高校時代は自転車競技で全国優勝を果たすなど競輪選手として期待されていた。しかし競輪学校の入試に5回落ちて夢を断念。挫折を味わい、その後3年間はアルバイトをしながら将来を模索していたという。

「父親が漁師をしていて、腕一本で生きている様を男らしいと感じていました。一国一城の主になるには何をすればいいかと考え、大好きなカレーで勝負しようと決めたのです。でも当時我が家では、男子厨房に入るべからずで、包丁すら持ったことがありませんでした。今思えば無謀だったのかもしれませんが、自転車競技のときも無我夢中で練習して優勝できました。やる気だけは人一倍ありましたね。」

23歳で別府市にあった小さな洋食店に入店。そこでは料理だけではなく、支払いや集客に悩むオーナーシェフの姿を通して経営の厳しさも知ることができた。その後も、ホテルや百貨店のレストラン、焼肉店など数店で修業を積み、料理の技術を磨いていった。

「30歳になり、このままでいいのかという焦りがでてきました。でも具体的にどうすればいいのかわからない。何もしないと落ち着かなかったので、オリジナルのカレーを作ろうと、いろいろなレシピを参考にしては休日に試作品を作っていました。いつのまにか6年が経ち、重い腰を上げるきっかけになったのが、妻の一言、“お店をやるって口だけじゃないの”でした。」

肝心のカレーもほぼ完成していたが、お客さまに受け入れられるか不安はあったという。しかし小学生40人にお昼を作る機会があり、自分のカレーを出したところ、生徒たちからお礼のメッセージが届いた。子どもに“美味しい”と言ってもらえたことで味にも自信を持てたのである。

◆事業の転機

通販サイトの開設などあらゆる手を尽くすが、
売り上げの低迷は止まらず閉店を決意。

4月のオープン当初はカレーとオムライスでスタート。カレーは好評を博し、月80万円という予想以上の売り上げをみせた。さらに、11月にデザート付きのカレーセットをメニューに取り入れたところ、翌年3月以降、月の売上が100万円、120万円と増えていった。ところがその後、160万円をピークにだんだんと客足は減りはじめ、平成19年ごろには月80万円を切ることもあった。

「料理に手を抜いたわけではなく、落ち込む理由がわかりませんでした。」

挽回しようと、料理の素材や調理方法を変えるなど、思考錯誤を繰り返すなかで生まれたのが、白ワインをベースとしたハンバーグソース。これまでハンバーグは、自家製デミグラスソースをかけて提供していたが、新ソースの開発に挑戦したのだ。

「ハンバーグには大分の豊後牛と、宮崎牛を使っています。地元の素材に愛着がありますし、九州産の牛肉のきめ細かい霜降りの肉質がハンバーグに適していたからです。その肉にあうソースは何か、いろいろ試すうち“なぜ肉は赤ワイン?”という疑問が生まれ、その固定概念を崩したくなりました。」

白いソースの色にもこだわったため、使える野菜も限られた。完成までに半年かかった白ワインソースは、意外性からか話題を呼び、一時は売り上げも持ち直した。しかしそれも長続きせず、DMやチラシの配布、ホームページの開設など、お客さまを呼び戻す努力を続けた。

平成21年には、商工会主催のIT経営セミナーで勉強し、店で出しているハンバーグを全国のお客さまがお取り寄せできるように通販サイトを開設。その後、お取り寄せ用の冷凍ハンバーグが九州放送のテレビや雑誌に取り上げられ、反響もあったが、どれも一過性だった。私生活でも妻と離婚し、三好氏は、高校生の子ども2人を育てながら店を切り盛りする生活を強いられた。

悪いことは重なるもので、出演料や材料費に120万円かけて、あるテレビショッピングに出演したにもかかわらず、冷凍ハンバーグの売り上げはたったの2万5,000円。これが閉店を決意する決定打となった。

「今でもそのときのことをはっきり覚えています。平成22年の10月18日のことでした。子どもたちを座らせ、『お父さんは年末に店を閉店することに決めたから。仕方ないけど、高校は中退してくれ。家も店も全部売って、3人で第二の人生を歩もう』と話しました。」

『マインズハンバーグ』

◆事業の飛躍と今後の展開

テレビ出演がきっかけで注文殺到。
崖っぷちから見事に復活。

閉店しようと決めた翌々日、録画していたテレビ番組『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ)を何気なく観ていたら、グルメ企画『旨イイSP』の出場者募集の案内が流れた。出場者の料理をゲストが試食し、美味しいかどうかを判定する番組。美味しくないと判定されることもある。

「私の切羽詰まった思いが伝わったのでしょう。自己PRの文章を書いて応募したところ、出場が決まりました。番組スタッフから“酷評されることもありますが、大丈夫ですか?”と聞かれましたが、そのときは閉店するつもりだったので、怖いものはありませんでした。」

それからが怒涛の復活劇となる。番組に出場したところ、白ワインソースのハンバーグをゲスト10人全員が「美味しい」と評価。その日の参加者のなかで、唯一、満点の評価をもらった。すると直後から電話とFAXが鳴りっぱなし。番組収録から放送日までの1週間の間だけで、番組関係者や観覧者の口コミで広がったのか、放送に合わせて用意した冷凍ハンバーグ、1万個が売り切れた。さらに番組が放送されると注文が殺到。3日間で5万4,000個、半月で10万個と想像以上の注文が続いた。

商工会にパソコンの専門家を依頼し、予約に対応できるように通販サイトのシステムを再構築、電話はコールセンターを利用、商品の発送は物流会社、ハンバーグの製造も委託するなど体制を整えた。

「予想以上の反響だったため、対応が遅れ、お客さまからお叱りも受けました。また、お店にも大勢のお客さまにご来店いただいたのですが、仕込みが間に合わないため、夜の営業を休まざるを得なかったですね。1年ぐらいはそんな状況が続いて、閉店どころではなくなりました。」

平成25年から夜の営業を再開。通販も全体の売り上げの3割程度に落ち着いた。

「結果的にテレビに出演したことで店は救われました。でもあのとき、出演は売り上げを伸ばすのが目的ではありませんでした。離婚や閉店など、子どもたちに辛い思いをさせたので、父親として最後の勇姿を見せたいと思ったのです。どんなことでも諦めず挑戦する姿、1%でも可能性があれば諦めない強さを見せたかった。テレビでは放送されませんでしたが、息子がカメラにむかって“この家族に生まれてよかったです”と言ってくれました。それを聞いて私も男泣きしました。」

放送から4年以上経つが、地元の人で賑わっているのはもちろん、今でも「テレビを観ました。」と、わざわざ県外からやってくるお客さまもいるという。経営も順調な今、三好さんの次の目標は大分市内に2号店を出すこと。そのため人材の育成にも力を入れていきたいと話す。

オムライスを作る三好氏
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