第2部 小規模事業者の挑戦 ―未来を拓く―

第2節 経営計画により具体的に効果を発現した事例

本節では、補助金などの申請をきっかけとして、これまで取り組んでこなかった経営計画を策定することで、具体的に効果を現した小規模事業者について下記の3事例を紹介する。

事例2-1-5 株式会社グルメコンガーズ(栃木県宇都宮市)

 代表取締役社長 山縣 昌世 氏

 取締役副社長  麦島 弘文 氏

〈加工食品製造販売業〉

事例2-1-6 黒潮堂(和歌山県新宮市)

 店長 和田 博 氏

〈菓子製造販売業〉

事例2-1-7 有限会社 旅館関屋(大分県別府市)

 専務取締役 林 晃彦 氏

〈旅館業〉

事例2-1-5:株式会社グルメコンガーズ
(栃木県宇都宮市)

(加工食品製造販売業)

〈従業員0名、資本金400万円〉

代表取締役社長 山縣昌世氏(右)取締役副社長 麦島弘文氏(左)

「第六次産業で全国マーケットを目指す“新里ねぎ”」
「目指すは関東三大ねぎの“最後の椅子”」

◆事業の背景

地域の特徴を反映する農産物、食品は
次世代にきちんと引き継ぐ責任がある。

15年ほど前に提唱された第六次産業という経営形態は、ここ数年、従来の第一次産業の未来を危惧する人々の間で注目が高まっている。第六次産業とは農業・漁業など、第一産業従事者が商品の開発・加工から、流通・販売まで行うというように、第二次・第三次産業を兼任する産業形態で、産業区分に使われる数字、1×2×3を掛け合わせ、六次産業と命名された。

この異業種がコラボレートする六次産業分野の事業をわずか3名で立ち上げ、“ねぎどころ”と言われる関東で、ほぼ無名のねぎを全国区のブランドに育てようという試みが、平成24年冬、栃木県宇都宮市でスタートした。そのきっかけを作ったのが、株式会社グルメコンガーズの副社長にして、麦島農園の園主・麦島弘文氏だ。麦島家は宇都宮から日光へ向かう途中に位置する新里(にっさと)地域で江戸時代より代々、「新里ねぎ」を栽培してきた。麦島氏自身も子どもの頃から畑を手伝い、農園を継ぐものと本人は考えていたが、父親の「大学へ行け」の一言で大学へ。卒業後は地元の食品製造機械の専門メーカーにエンジニアとして入社し、日本はもとより、ロシアのピロシキ、ドイツのクノーデル、メキシコのタコス……、世界のさまざまな食品製造現場に自身が設計した機械を納めてきた。そんな仕事の日々のなかで、麦島氏は“地域独自の食”の重要性を 強く意識するようになる。

「日本中、世界中を歩いて、その地域の歴史ある食べ物に触れていると、こういうものは大切に守り、次世代に継承しなきゃならない、という思いがどんどん強くなっていきます。それは私が子どもの頃から親しんできた、この土地独特の新里ねぎも同じじゃないか、と気づかされました。」

収穫した新里ねぎ

◆事業の転機

農業のプロ、機械のプロ、レシピのプロが集まり、
いよいよ「新里ねぎ」のチャレンジが始まった。

新里ねぎは数あるねぎの品種のなかでも、緑の本葉部分も美味しく食べられ、糖度が高い品種だが、栽培に非常に手間がかかる上、一般的なねぎが年に2回以上収穫できるのに比べ、栽培期間も14か月と効率が悪い。また、この地の土質に合わせた独特な栽培法に由来する、“曲がりねぎ”のため、市場ではあまり好まれず、今や“幻のねぎ”と呼ばれる存在だ。

以前は新里地区で多くの農家が栽培していたが、栽培農家は減る一方。そんな状況を憂う麦島氏は勤務していたメーカーを退職した後、農業に集中して取り組み始め、なんとか新里ねぎの魅力を伝える方法はないものかと思案を始める。そして、だした結論はそのまま食べられる加工食品の開発だった。生ねぎを市場に流通させるのが難しくとも、加工品なら消費者に届けるハードルも下がると考えたのだ。

しかし、ねぎでどんな加工食品が作れるのか? 麦島氏には皆目見当がつかなかった。そこで白羽の矢を立てたのが、毎年、自身の農場に新里ねぎを直接、買いに来てくれるお客さまのひとり、山縣昌世氏。山縣氏は「一番好きな野菜はねぎ」と言い切る、大のねぎ好きで、友人からの口コミで新里ねぎを知り、麦島農場にたどり着いた熱心なファンだ。麦島氏は毎冬、ねぎを買いにやって来る山縣氏と顔を合わせるうち、氏が飲食店コンサルタントや商品・レシピを立案するプロと知り、新里ねぎの加工品開発の相談を持ちかけた。ビジネスの依頼というようなものではなかったが、この話を聞いた山縣氏は二つ返事で引き受けた。

「麦島さんからお話をいただいて最初に思ったのは、関東でねぎといえば、下仁田、深谷が有名ですが、三番目がまだはっきりしない。だから、新里ねぎを関東三大ねぎの最後の席に座らせようと。」

麦島氏、山縣氏、山縣氏の会社の専務、そして、麦島氏と旧知の間柄で、日頃から地域新興に尽力する株式会社スズキプレシオンの代表取締役会長・鈴木庸介氏もこのプロジェクトへの参加を決め、平成25年2月、いよいよ本格的にプロジェクトが始まった。

◆事業の展開

時間がないことを言い訳にしない。
スピード重視の事業展開でチャンスをつかむ。

行動を開始した直後、千載一遇のチャンスが訪れる。栃木経済に長く貢献してきただけにメンバー随一の人脈・情報網を持つ鈴木氏が、栃木県の補助事業の話を持ち込んできた。「フードバレーとちぎ農商工ファンド」と銘打たれた事業は農業の生産者が別の事業者と新商品開発の試作に取り組んだ場合などを対象にしたファンドで、これから新里ねぎの加工品企画を目指す彼らにはうってつけだった。年度末が申請締切のこの補助事業、この時点で猶予はたったの1か月。厳しいスケジュールのなか、山縣氏は試作を繰り返し、なんと約10日でドレッシングをはじめとする、三つのレシピの試作企画とファンドの申請書を完成させる。

完成度の高さを評価された彼らのプランはファンドに採択され、試作品は同年11月末に完成(本来の期限は翌年3月)。翌月には第六次産業を担う法人、(株)グルメコンガーズを設立し、商品化の準備に入った。ここまで急いだ理由を山縣氏はこう説明する。

「新里ねぎの収穫期11月?12月が迫っており、フレッシュなねぎで、最高の製品に仕上げるにはこの時期を逃すと、あと1年製品化を待たなければならなかった。」

完成させたレシピのうち、まずは新里ねぎをふんだんに使った3種類のドレッシングを製品化。初回ロット2,000本は道の駅や栃木県のアンテナショップなどで早々に売り切れ、すぐに2回目の生産に入らなければならないほどの人気に。初の商品化としては上々のスタートを切った。

『新里ねぎドレッシング』と自主企画した『新里ねぎたまり漬け』

◆今後の事業展開と課題。

大きなビジネスに育てる第一歩。
新里ねぎをマーケット一年生に入学させたい。

ひとまず手応えを感じたものの、これは全員が単なる通過点と感じていた。製品化にひた走った彼らの思いは「まだ、マーケットにデビューしたとは言い難い」という厳しい実感だった。そこで次のフェーズでは、山縣氏らは「新里ねぎ加工品をマーケット一年生に入学させよう」と題する経営計画書を策定し、持続化補助金を活用。商品の魅力を全国に伝えるためのホームページ制作と、商品を魅力的に見せる贈答用のパッケージ制作を行い、さらに攻勢を強める。

「地域活性といっても、地元で少量販売をするのではなく、スタート時から私たちの目標は日本・世界マーケットで通用するビッグビジネスに育てることです。」

山縣氏の言葉を受け、新里ねぎ生産者の麦島氏も続ける。

「新里ねぎの魅力が広く伝わり、山縣が言うように、このねぎが関東三大ねぎと呼ばれるほどブランド化して、初めて成功といえるでしょうね。生産者が減少し高齢化が進むなか、このねぎを生産する価値を創出して若い世代に継承していけば、新里ねぎの文化も守られるはずです。そこまでやり遂げて、地域活性化につながると考えています。」

少人数でスピード感を大事に進めたからこそ、大きな目標の共有ができ、上々のスタートを切った(株)グルメコンガーズ。3社4名のチームワークがあれば、新里ねぎが関東三大ねぎの一つとして語られる日はそう遠くないかもしれない。

新里ねぎの栽培

事例2-1-6:黒潮堂(和歌山県新宮市)

(菓子製造販売業)

〈従業員0名〉

店長 和田 博氏

「多様化したニーズに応えるため、
新しい商品を積極的に提案していく」

◆事業の背景

二代目として店をまかされ、
せんべいと洋菓子で経営をスタート。

和歌山県新宮市の丹鶴町商店街に店舗をかまえる黒潮堂は、昭和26年に創業した菓子店。熊野速玉大社への通り道という立地の良さもあり、熊野三山のシンボルの焼印を入れた「やたがらす煎餅」をはじめ、地元名産の鮎の姿を形どった「熊野鮎せんべい」を定番商品とする、せんべい専門店として観光客や地元民に親しまれてきた。

創業者の次男として生まれた和田博氏は、高校三年生のときに父が病に倒れたことを期に後を継ぐことを決意。病床の父の「せんべいだけでは時代に取り残される」の言葉を受け、大阪の洋菓子店で職人として修業を始めた。その間、店の運営は母が行っていたが、正月とお盆に帰省するたび、周囲の店が代替わりして新しく改装するなかで自分の店が古ぼけて見えるのが気になっていたという。

「ですから、店を任されることになった昭和58年の翌年には、古い店舗を改装し、せんべいと洋菓子を売る店としてリニューアルオープンしました。当時の新宮は人口も多く、休日はたくさんの人で賑わっており、順調なすべり出しでした。」

そんな状況に陰りが見え始めたのは、平成の時代になってからだ。規制緩和によって郊外に大型商業施設が出店するなか、新宮市そのものの人口減少の影響もあって人の流れがガラリと変わり、売上は年を追うごとに落ちていった。

「それでも、高齢者や常連客に支持されているせんべいと、新しい顧客を取り込むことのできる洋菓子の両方を販売することで、何とか商売を続けていくことができました。」

◆事業の転機

“熊野産のお菓子”をアピールして、
商品の価値を高めることに挑戦。

とはいえ、その後も全体の売上が目覚ましく向上することはなく、いつしか「このままではいけない」と危機感を抱くようになった。きっかけは、1日平均3個あった子ども用バースデーケーキの注文が、日増しに落ち込んでいったことだった。和田氏はそれまでの商品構成を見直し、より訴求力のある商品を生み出そうと模索を始めた。

「最初に思いついたのが、地元の材料を使えば“熊野産のお菓子”として注目してもらえるのではないかということでした。県内から卵や牛乳などを取り寄せ、素材に使えるものを探し始めました。」

こうして誕生したのが『熊野の牛乳と卵で作るなめらかプリン』と『熊野はちみつのマドレーヌとフィナンシェ』である。特に反響が大きかったのは、はちみつを使った商品だ。和歌山県内の養蜂業者を訪ね歩き、出会った那智勝浦の中村養蜂場は、加熱や混ぜものをしない“地ミツ”を生産しており、これを素材に使った商品が「美味しい」との評判を呼んだのだ。

「はちみつ独特の甘味と風味のほか、ビタミン類やアミノ酸、ポリフェノールなど、栄養分が豊富なことにも魅力を感じていただけたようです。はちみつはどんなお菓子にも用いることができる材料ですが、焼き色をきれいに見せる効果があるので、マドレーヌやフィナンシェのような焼き菓子にはぴったりなんです。また、生ケーキと比べると日持ちがよいので、売れ残りによるロスが少ないという経営面でのメリットもありました。」

気持ちの上でも地元産の優れた素材に刺激を受け、それを材料として使うことに商品への自信とやりがいが生まれた。さらに、商品開発へのモチベーションが高まったことも大きな収穫だったという。

『熊野はちみつのマドレーヌとフィナンシェ』

◆事業の飛躍

イベント参加をきっかけに、
消費者目線の大切さを知る。

新宮商工会議所が年1回のペースで開催している『しんぐう逸品フェア』に参加したのも、意義のあることだったと和田氏は振り返る。同フェアは、新宮市内の商店街の参加店舗がそれぞれの“お勧めの逸品”を選び、約2週間のフェア開催中に店頭販売するというもの。参加者を募った『お店まわりツアー』や、店舗以外の会場での『しんぐう逸品発表会』も行われるほか、グルメ&フーズ、ファッション、ライフ&バラエティーといった部門別で逸品への投票も行われるので、参加店舗は開催日までの約半年間、忌憚のない意見交換をしながら真剣に商品を選ぶのだという。

「平成23年に参加したときに、地元産の『まりひめ』というイチゴで作ったショートケーキを考えたんです。ところが材料費を考えると、いつも店に出しているショートケーキに比べ100〜120円も割高になることがわかり、悩みました。そのとき、参加店舗の方々が『高くてもきっと売れる』と後押ししてくださり、出品を決意しました。」

こうして生まれたのが『黒潮いちごのミルフィーユショート』である。結果は好評で、翌年からは季節限定で売れる定番商品になった。

「新メニューを考えるときは、洋菓子組合の講習会で教わった最先端の流行や技術など、プロの視点を参考にすることが多かったのですが、フェアに参加したおかげで、菓子の専門家以外の方の意見も大切であることを学びました。」

◆今後の事業展開と課題

お客さまの視点から店内を改装。
新たなニーズを掘り起こす。

平成26年9月には小規模事業者持続化補助金を受けて店舗を改装したが、ポイントはお客さま目線から店内のレイアウトを見直すことだった。

「以前はレジを壁に面して置いていたので、精算のときにお客さまに背中を向けなければなりませんでした。それを対面できる位置に変更し、また、テーブルを中央に置いて、お客さまが店内を回遊しながら商品を選べるようにしました。」

お客さま視点はそれだけではない。床をすべりにくい材質に変え、壁や天井を明るい色にして商品を美しく見せると同時に、店内にいるだけで浮き立つような心地良さも演出した。さらに、壁に設置した棚には、思わず手に取りたくなるような贈り物用パッケージを展示し、購入意欲を促している。

「もともとお菓子には贈答品としてのニーズがありますが、バレンタインデーやひなまつり、ホワイトデー、父の日、母の日、クリスマスなど、イベントごとに贈りたくなる商品を提案していくことが大切だと思います。実家に帰省してきた方や、観光客のおみやげ品としての役割もあるでしょうし、自分のために気に入ったお菓子を買いたいという方のニーズにも応えていかねばなりません。長く商売をしていると、美味しいものを作れば売れると考えて、自己満足で終わってしまいがちですが、多様化したニーズに応える努力を続けることがこれからの時代には必要だと思います。」

『黒潮いちごのミルフィーユショート』
改装して雰囲気も明るくなった店内

事例2-1-7:有限会社 旅館 関屋(大分県別府市)

(旅館業)

〈従業員7名、資本金300万円〉

専務取締役 林 晃彦氏

「時代を見越してホームページを一新」「外国人観光客の集客に力を入れる」

◆事業の背景

創業100年の老舗旅館。
世代交代により業態も変化。

日本有数の温泉地である別府温泉。毎年800万人を超える旅行者が訪れるこの地に、創業100年を迎えた老舗旅館がある。新鮮な豊後の幸で宿泊客をもてなす割烹宿『旅館 関屋』だ。

創業は大正14年。現在の代表取締役・林太一郎氏の祖母が、観光地としても有名な大衆温泉『竹瓦温泉』近くで開業し、その後は林氏の父が継ぎ、昭和40年に法人化、昭和52年に別府タワー近くの現在の場所に移転した。客室9部屋と宴会場4部屋の落ち着きのある建物だ。

太一郎氏が三代目として旅館を継いだのは平成17年で、同年に『別邸 はる樹』という高級旅館を新たに開業。太一郎氏が『別邸 はる樹』の経営に携わるため、現在、『旅館 関屋』は、弟である林晃彦氏が責任者として、経営とサービス業務を担っている。

「祖母の時代は一階が大衆食堂で、二階の大広間を宴会や宿泊に使っていたそうです。昭和30年代には当時、珍しかったテレビが一階に置いてあり、夕方になると地元の人たちがテレビを観ながら食事をしていたとか。父は修行時代、ホテルの料亭で腕を磨いたので、父に代替わりしてからは、宿泊よりも料理がメインの民宿のようでした。ですから、料理を目当てに宴会に利用されるお客さまもたくさんいらっしゃいました。」

晃彦氏の兄、現在39歳の太一郎氏は大学卒業後、大手ゼネコンに就職。28歳で実家に戻り、父のもとで、旅館業のノウハウを学んだ。もともと宿泊業に興味のあった太一郎氏は29歳で代表に就くと、宿泊に力を注ぎ、同旅館を“美味しい料理が食べられる旅館”というスタイルへ移行させていく。

◆事業の転機

京都のある旅館経営者との出会いで、
外国人観光客の受け入れに興味を持つ。

一方、晃彦氏は東京の大学を卒業後、そのまま大学院に残り、会計を勉強していた。

「別府は中小企業が多く、地元の小さな会社の経営を会計の面からサポートしたいと考えていたんです。ところが、兄が『別邸 はる樹』にかかりきりになり、『旅館 関屋』の経営がおろそかになってきてしまった。両親が中心になって切り盛りはしていたのですが、インターネットでの旅行予約が当たり前の時代、そういった部分の対応まではなかなか難しいですからね。兄から相談を受け、5年前、27歳のときに私も東京から実家の旅館に戻ってきました。」

別府に戻ってきた晃彦氏は、最初の1年間は、居酒屋でアルバイトをして接客業を勉強した。旅館をまかされてからは、旅館組合の青年部に所属し、委員会活動に参加するなかで、ほかの経営者から接客やサービス、経営のやり方などを積極的に吸収していった。そして3年前、外国人の宿泊客をターゲットにして高い収益を上げていた、京都のある旅館経営者に出会う。

「旅館の売り上げは安定していたのですが、水商売なので時期によって上下します。もっと安定させるために何かできないかと思っていたので、外国人旅行者集客の話を聞いて興味がわきました。言葉の壁、文化や宗教の違いから私自身、外国人に苦手意識を持っていましたが、話を聞いて、旅行の楽しみ方は国や文化が違っても基本は同じで、外国人も日本人もないのではないかと。別府を訪れる外国人のお客さまも増えてきましたし、東京オリンピックも控えています。これからは今以上に、外国人のお客さまが増えると考え、兄に外国人旅行者の受け入れを提案しました。」

しかし兄の太一郎氏は「言葉が通じないと、サービスがおろそかになる。それよりも日本人の今のお客さまを大切にしたほうがいい。」と、懐疑的だった。それでも粘り強く兄を口説き、「日本人のお客さまに対するサービスに支障がない範囲で」という条件付きで、平成25年12月から外国人のお客さまを受け入れることにした。当初は試験的に1週間に1〜2組程度の予約にとどめたという。

外国人に対応できるようにベッドの部屋もある

◆事業の飛躍

外国人観光客に対応できるように、
補助金を利用しホームページを改定。

蓋を開けてみると、アドバイスをもらった京都の旅館経営者の言葉どおり、外国人のお客さまだからと、身構える必要はなかった。見通しが立ったことで、晃彦氏は本格的に動き出した。まず、必要なのは外国人観光客を取り込むため、世界中で利用されている宿泊予約サイト『Booking.com』への登録。そして、現代の旅館業にとって生命線ともいえる、ホームページのリニューアルだ。別府商工会議所のアドバイスで「小規模事業者持続化補助金」を利用し、ホームページをリニューアルするとともに、英語版を追加。外国人にも料理の内容がわかるように工夫した。加えて、英語のパンフレットを作成して市内の観光案内所などで配布し、今年からはスマートホン用のサイトもスタートさせた。

「初めはとにかく情報収集です。どういう施設を外国のお客さまは選ぶのか、『Booking.com』の担当者からアドバイスをもらいました。また、お客さまにも必ずご要望をお聞きして、サービスや設備の参考にしました。今は全館Wi-Fi完備ですが、そのきっかけは、お客さまの『Wi-Fiは通じてないの?』の一言。『少々、お待ちください』と言って、急いで近所の電器店で無線ルーターを買い、急場をしのいだこともありました。部屋の冷蔵庫に飲料水を置くようになったのも、希望者に加湿器をお貸しするようになったのも、きっかけはお客さまのご要望からでした。」

予約時に食べられないものを事前に確認をする。スタッフは英語が得意ではないが、到着したら観光したい場所をうかがい、アクセス方法を説明する。そんなささいなことでも、晃彦氏の“おもてなしの心”が伝わるのか、国籍を問わず、今では週20組前後の外国人のお客さまが来館する。

◆今後の事業展開と課題

新しい血が注がれても
老舗旅館の伝統は守られ続ける。

「日本人のお客さまへの接客も今までどおりですし、外国人のお客さまとのトラブルやクレームもありません。業務形態は様変わりしたかもしれませんが、父から私たち兄弟に代替わりしても、祖母の時代から受け継がれている伝統は守っていきたい。それは“関屋の接客の心”、そして何よりも“関屋の味”です。実家で生活をしていたとき、私は魚よりも肉が好きでした。ところが、東京から実家に帰って父親の刺身を食べたとき、その美味しさに感動したのです。同時に、父の料理人としての仕事を誇りに感じました。私が味わった感動を、お客さまにも味わっていただきたい。そんな気持ちを大事にしていきたいと思っています。」

料理長である父は毎朝、市場で魚を仕入れ、地場の肉や野菜を使い、今も料理に腕をふるっている。その味を求めて『旅館 関屋』を訪れる、昔からのご贔屓も多いという。

古くから続く旅館は、外国人観光客を受け入れるなど大きく様変わりをした。そして年末には、若い世代をターゲットとした3軒目となる旅館を新たにオープンする。若い血が入ったことで、伝統は受け継がれながらも、時代に対応した経営体制が確立されている。

地元の食材を使った自慢の料理
市場で食材を物色する料理長
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